巻頭言
2000年10月


2000年10月 1日

「召命と伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるの も、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることが おできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考 える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 (ロ−マ14:4〜5)

主が私たちを導かれる方法には無限大の広がりがあります。決して型にはまったものではあ りません。たとえば、主は重病のナアマンをいやされましたが、それは、彼の思い描いたも のとは大分違いました。主は御自身の主権のもとで、人知を超えたふしぎなわざを起こされます。 従って、私たちに求められることは主の完全な支配を確信することなのです。今はどんなに だめと思っている人であっても、主はその人を再び立てることができると記されているので すから。

当時のロ−マ教会の中で、他人の召し使いをさばくということが起こりました。パウロは それを厳しく批判しています。むしろ、各々が主の召しに個人的に従うことを勧めています。 人はそれぞれ、主との契約関係で生きるのです。人からの評価とか世間体とか、肉の思いに 縛られることがあってはなりません。

ヒマワリはヒマワリらしく、バラはバラらしく咲けば良いのであって、お互いを比べる必要も ありません。むしろ、自分がどんなことに召されているかをよく吟味して行動することです。

モーセとヨシュアは、全然その働きは違いました。それで良いのです。私たちは自分の心の確 信に忠実である事です。主は無名の無力な者を用いてみわざを推し進め、また、有力な者を通 して、くすしい出来事を起こされます。ですから両者とも大切な任務を帯びて共に生かされて いくのです。主のみわざは時に叶ってすばらしいものです




2000年10月 8日

天国の希望

牧師 犬塚 修

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が 人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、 その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、 もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』する と玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、 『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。』と言われた。 (ヨハネの黙示録21:3〜5)

愛する竹山菊枝姉が天に召されました。享年86歳でした。貴姉は1997年3月30日、 イエス様を信じてバプテスマを受けられましたが、その短い信仰告白の中に「 私はこれまで幸せに過ごしてきましたけれども、これから先のことを考へイエス 様お力をかりて残った人生を過ごして行きたいと思ひます。」としめくくってお られます。

その後、約3年半にわたる歩みは、その信仰告白の通りでした。いつもイエス様と 共にあってうるわしい信仰を全うされました。貴姉は礼拝をよく守り、いつも 微笑んで平安に満ちたお顔をしておられました。本当にすべてを感謝する人でした。 それは、貴姉が主から永遠の命を受けておられたからであると思います。何が起こ ってもすべてを主にまかせ、いつも主のみ顔を仰いでおられました。晩年はこのよ うでありたいと思わせるものがありました。

しかし、それは一時的なものにすぎません。私たちはイエス様を信じる信仰によっ て、再び、天国で会うことができます。そこでは、死も嘆きも悲しみもない神の 支配される新天新地の世界です。そこに貴姉は先に入っていかれたのです。いつ の日か私たちもそこで会うことができるのです。この復活の希望を堅く持って今 後も歩みたいものであります。




2000年10月15日

天の父の愛

牧師 犬塚 修

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れてい たのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 (ルカ15:20)

どうしようもないろくでなしの弟息子に対する父の愛は驚くべきものがありました。 彼ほどわがままで、自己中心的な人間も珍しいのですが、父は彼を愛し、その帰り を切望し、今か今かと待ち続けました。そしてついに、彼は惨めな姿で帰ってきたのです。

その時、父は少しも彼を責めることなく、無条件で抱きしめたのです。私たち の神はこの父の姿に非常に似ています。たとえ私たちがどんなに惨めな人間であっても、 決して見捨てたり、諦めたりせず、むしろ私たちの自主性や自由を尊重し、あるがまま の姿で生きる事を許されます。父は、自分の子供が色々な人生体験を積んで、心砕かれ た者として帰ってくる日を待望されているのです。

愛はその人を信じることです。いかにダメな生き方しかできない者にも、神は希望を 持ち続けられます。私たちはこの弟息子に似ています。そんな私たちに対して、神は温 かく見つめ、かつ罪にまみれた私たちの最悪の地点まで走り寄って来られます。 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにく ださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰め てくださる」(第二コリント1:3〜4)父の愛は無限大の深さと広さがあります。その大海 のごとき広い包容力はすばらしいものです。

ゆえに、私たちは自分を痛めつけたり、傷つ けたりしてはなりません。むしろ、いつも主に愛されている事実をしっかりと確信して 生きることです。どんな時にも、どんな所にも、主は共にいて下さいます。 そして最高の祝福をもって、私たちの人生を恵みに溢れたものとして下さるのです。




2000年10月22日

主がなされるのです。

牧師 犬塚 修

他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れ るのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立た せることがおできになるからです。 (ロ−マ14:4)

主が私たちを導かれる方法には無限の広がりと深さがあります。私達は自分の心に 思い描いた通りに事が進んでほしいと願うものです。しかし、現実は全く違う方向 に突き進む事が起こる時があります。
その時、私たちの心に二つの反応が起こります。一つは深い失望感です。「主よ、 どうしてこんな事になるのですか」と悲しみ嘆くのです。もう一つは「主よ、どのよう に導いて下さいますか」とひたすら祈り、すばらしい結果を主に期待することです。 これは希望と忍耐の道です。

「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支 える方。 測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」 (詩編816:5〜6)この詩人は自分の運命を自分の努力で何とかしようとはし ませんでした。主の御手に任せたのです。

また、パウロ自身は、私たちが弱くなって倒れ伏しても、人生の主人である神は再 び立てることがおできになると確信していました。いつその回復の時が来るかは、 私たちの目には隠されていますが、時が満ちると、そうなると信じていたのです。 人間的には不可能に見える事であっても、神は全能ですからドンデン返しという 大逆転の出来事を起こされます。

「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの 時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、 あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(第一ペトロ5:6〜7) とあります。この約束を確信して生きる時、私たちは勝利の道を歩むのであります。




2000年10月29日

弱さの中でこそ

牧師 犬塚 修

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮さ れるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、 むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(第二コリント12:9)

イエス様と出会う以前のパウロは人間的な意味ではとても強い人でした。彼はあら ゆる面で非常に優秀な人でしたので自然に傲慢な人になっていったことは仕方が ないことでした。しかし、彼の高ぶりが打ち砕かれる時が訪れました。それは、 ダマスコにおいて復活したイエス様との出会いでした。彼はイエス様によって新 しく生まれ変わったのです。救われたからパウロは謙虚な人、愛の使徒になりました。 そして彼は自分にとって宝物と思っていたものをすべて捨て去ったのです。

「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストの ゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリ スト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なして います」(フィリピ3:7〜9)

私たちの人生においてどうしてもなくてはならないものとは何でしょうか。それは、 永遠の命であるイエス様を獲得することではないでしょうか。このお方を得たパウ ロにとってすべてのものは、従属した地位に置かれるようになりました。私たちの 場合も主の恵みに生きるためには、自分の弱さや貧しさを恥じることなく、それを 喜んで受け入れることが大切なのです。弱い自分を発見し、感謝する時、私たちは 物質欲、功名心などから解き放されるのです。私たちは弱さの中でこそ謙虚にされ、 益々、主の愛に生きるのであります。従って弱さは私たちにとって大きな恵みなのです。



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