巻頭言 1999年9月 |
「主と深く交わる教会」(教会学校強調月間)を目指して
牧師 犬塚 修
喜びに満ちた愛よ あなたはなんと美しく楽しいおとめか。(雅歌7:7) |
イエス様と私たちの教会との関係は、恋愛関係と言えます。恋人である主は
婚約者である私たちに対して熱い愛をいだかれます。また今は、楽しい
ハネムーンの時でもあります。
花婿であるイエス様と語り合う時、花嫁は
喜びで満たされます。少しでもその姿を見失うと心は寂しく孤独感に打ち
ひしがれます。人はだれかに愛される時、美しくなります。また、見られる
時、輝くのです。
有名な老女優が「あなたはどうしてそんなに長く美貌を
保っておられるのですか。」と聞かれて「私はいつも、どこでも人から
見つめられているからです。」と答えたそうです。
イエス様は、私たち
(教会)の一人一人を愛のまなざしで見つめられます。そして、私たちも、
もっと深く主を知り、その永遠の愛に報いたいと願うのです。それが「献げる
生き方」です。愛する二人はいつも一緒にいたいと熱望します。私たちの
霊はイエス様との深い交わりによって、呼び覚まされ、霊的な喜びに満たされ
ます。それは、この世のどんな楽しみよりも、深く充実したものです。
「ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。…人々は麦とぶどうを豊かに取
り入れて喜びます。それにもまさる喜びを わたしの心にお与えください。
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、
確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。」(詩編4:6〜9)
また、愛の主を深く知るためには、どうしてもラブレターであるみ言を学ぶ
必要があります。それが教会学校です。主日毎に、聖書を共に学び、
成長していきたいものです。
「多く愛した…」
牧師 犬塚 契
するとそのとき、その町で罪の女であったものが、…泣きながら、イエスのうし ろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし…足に接吻して、香油を塗 った。…イエスが言われた、「…この女は多く愛したから…」 ルカ 7:36〜50口語訳 |
どこまでさらけ出しているだろうか。イエス様の前にどこまでさらけ出しているだろ
うか。どこまで愛しているだろうか。どこまで期待しているだろうか。
当時ユダヤは
ローマ帝国の植民地であった。戦後まもなくの日本がそうであったように、ここにも
ローマ兵相手の売春婦がいただろうと思う。罪の女はその一人であったのだろうか。
罪ある生活をしながら、心はどうしようもない恐れと不安で一杯であった。今にも崩
れ落ちてしまいそうな絶望が彼女にはあった。そして彼女は確かに崩れ落ちたのであ
る。
しかし彼女はどこで崩れ落ちたのだろうか。彼女が自分の罪と弱さと今の現実と
をさらけ出した所、それはイエス様のその足もとであった。汚れた自分、闇にいる自
分、落ちこぼれた自分、そのすべてをイエス様にさらけ出したのだ。周りにいる人な
ど目に入らない。恥もなく外聞もなく、イエス様の前で泣き、自分のできる限りの事
をしたのだ。私たちは、キリスト教をやっているのはでない。片手間に信じていくの
でなく、自分の全人格、すべてをもって主に応答していきたいと願う。罪深く、誰から
も白い目で見られてきた彼女にイエス様は、愛に満ちたまなざしで答えるのである。
「この女は多く愛した…」多く愛しているだろうか。多くを愛すということは、自分
の心の奥底まで隠すことなく、イエス様の前でさらけ出す事である。泣けばいい、苦
しければ苦しいと言えばいい、崩れればいい、それがイエス・キリストの前でなされ
るとき、主との更なる深い交わりになるのである。
何でもかなえられるためには
牧師 犬塚 修
わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄 光をお受けになる。14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげ よう。」 (ヨハネ14:13) |
これはなんとすばらしいイエス様の約束でしょうか。けれども、どんなに祈っても応えられず、
失望と落胆を繰り返してきたことはないでしょうか。なぜ、私たちの祈りは そんなに聞かれ
なかったのか…。
このみ言葉を読んで私が教えられたこと「イエスの御名によって」という意味
の深さでした。これは「イエスに働いていただいて、または自我に死んで」という意味ではないか
と思うのです。
先日、畑に行きましたら、余りに雑草が生い茂っていたので、思わず素手で一
生懸命にとり始めました。しかし、帰宅してからが大変でした。人差し指の爪の中に泥が入り
込み、ズキズキ痛んでしどうしようもありません。やっとのこと針で取ってもらいましたが、
その痛さには閉口してしまいました。私は軍手を使うべきだったのに、「なんとかなる。」と自
分を納得させ、あわててしたことがとんでもない結果となったのです。私はつくづくと反省し
ました。何か事を成す時、焦ったり、「今でないとだめだ」と思い込み、自分の思いに任せてや
ると、後でひどい目にあったことはなかったか…。主の名を呼び、主に任せ、主の助けによっ
てなすことがどんなに安全なことかと教えられたことでした。
木造の家を建てる場合、木はまず
死ななければなりません。生きたままの木では、役に立たないのです。用いられるためには一度、
カンナに削られて死ぬのです。
神の家を建てる時、本当に役に立つ器とは肉の思いに死に、従順な
心で主への感謝にに生きる人であります。
帰る場所
牧師 犬塚 契
立って、父のところに帰って… ルカによる福音書15:18 口語訳 裸でそこに帰ろう ヨブ記 1:21 |
なまぬるい風、暗くなってなっていく空、通ったことのない道、一人、そんな条
件が揃うと淋しく感じることがある。不安になる。早くアパートに帰りたいと思う。
皆さんにもそんな瞬間があるだろうか。そんな時考える。帰る場所があるってことは
なんて幸せなのだろうかと。帰る場所がないことを想像してほしい。どこに行けばい
いのかわからない。誰に聞けばいいのかわからない。なんて不安な人生だろうか。
では心の帰る場所は、どこだろうか。痛んだとき、苦しんだとき、迷ったとき、傷ついた
とき、私たちは神の言葉に帰る。それでも、かたくなな者だから、素直に帰らないこと
もあるかもしれない、寄り道するときもあるかもしれない。しかし帰る場所は用意され
ているのである。いつまでもかわらずに帰る場所は、用意されているのである。
クリス
チャンであっても、迷うし、罪も犯してしまう。「私は、罪の内を歩みません」と胸張
って言える人なんて一人もいない。クリスチャンが胸張って言える事は何か?それは、
「帰る場所を知っている」ということである。そして、そこでくぎに打たれた両手を広
げて待っている方に許され、愛されるのである。生きていれば、痛いことだってある。
否、痛い事のほうが多かったりもする。人を責めたり、裁いたり、自分の醜さを責めた
り、裁いたり…。忙しい毎日である。しかし、本当に疲れ果てたとき出てくる言葉は、
「さあ、帰ろう」である。主と深く交わることとは、いつでも帰ることである。たいし
て立派なことしている訳じゃない、打ちのめされることもある、しかし帰る場所がある
ことにただ感謝するのである。