巻頭言
1998年9月


1998年9月 6日

ようこそ教会学校へ

牧師 犬塚 修

『今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っ ているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 (申命記6:6,7)

聖書を読むことが大切であると分かっていても、ついつい忘れてしまう時があります。 また、決心して一人でみ言を読んでも、途中で理解できなくなって止めてしまうことも あるでしょう。このようなことを解決する最良の方法は教会学校への参加です。教会学校 というと、子どものためのものと考えられる節がありますが、本当は私たち自身(勿論、 大人も神の子ですが)のためにあるのです。礼拝直前のわずか40分の学びですが、とても すばらしい宝のような一時です。

イスラエル人は偉大な精神文明を後世に伝えました。彼らの不屈の魂、逆境に打ち勝って いく強靱なエネルギーの秘密は「共に集まって聖書を学ぶ」ところにありました。一人では どうしても分からない真理が皆で語り合っていく中で、不思議に理解できるようになりま す。

私にとっても、このクラスは心の安まる喜びの時です。今、学んでいる箇所はガラテヤ書です。 クラスにおいて、聖書を体系的、組織的に順序正しく学んでいます。イスラエルが「聖書の民」 と言われるように、私たちも同じように呼ばれたいものです。「朝の15分があなたを変える」と いう言葉があります。これは祈りの大切さを教えていますが、更に「日曜日の朝の40分が私たち を変える」という思いをもって生きていきたいものであります。



1998年9月13日

老識への招き

牧師 犬塚 修

また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた。 (ヨハネ黙示録4:4)

「長老」とは、「@初期キリスト教会の聖職の一階級。現在は牧師を補佐する信徒代表。 Aその方面で経験を積んだ、頭(かしら)に立った人」(広辞苑)とあります。また、 「老識」とは、「物事の道理に老熟した見識」の意です。

日本は歴史上稀に見る 「高齢者社会」へと突入しました。そして、多くの場合、「老」という言葉は否定的な 意味合いで使用されるケースが多いのは悲しいことです。この「老」は、象形文字で 「髪の長い、背の曲がった老人が杖をついて立っている形」だそうです。

しかし、聖書においては、老人は尊敬の対象でした。ノア、アブラハム、モーセなどの 偉大な信仰者はいずれも驚く程の高齢者です。若者は長老の熟練した知恵を頼りにしま した。人々は長老の語る一言一言を金銀のように価値ある宝としました。そして、正に、 教会の徳を高めるのは老識の人々なのです。年若い者はエネルギッシュな良い面があり ますが、教会の堅固な土台は、全体を見つめ、祈りと讃美と従順と知恵などです。 そしてこれらは老識の人にあります。

杖とは信仰のシンボルです。己の力に依存することなく、信仰の杖によりかかって歩 まれるそのお姿は私たちの模範です。私たちの教会にも長老のような方々が与えられて います。何という祝福でしょうか。そして、私たちも年齢に関係なく老識を目ざして祈 りに励んでいきたいものであります。



1998年9月20日

ファミリー聖書日課を始めませんか

牧師 犬塚 修

ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 (使徒言行録17:11)

1994年5月22日、第一回のファミリー聖書日課を開始して、約4年4ヶ月たちました。 最初の箇所はイザヤ書19章でした。この長い期間、コツコツとこれを実践してきた兄姉 の熱意を思い、心から嬉しく感謝しています。お陰様で聖書全巻を読破し、今は二巡目に 入っています。

「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」(詩編119:25)「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(同119:105)とあり ますように、御言葉は、日々のマナであり、暗闇を打ち破る灯です。不安と恐れを取り除 くのは御言葉です。

この一週間分の日課をまとめるのに、私自身大変苦労します。ある時は深夜まで及ぶこと もしばしばです。しかし、毎日熱心に御言葉に聞き従おうとされる兄姉の姿を思い浮かべ ますと、新たに力が注がれます。また、皆さんの「答え」を読むことができるのは感謝な ことです。中には、提出されず保存されている人たちもおられると聞きましたが、もし、 できますならご提出ください。共に御言葉に応答して同じ方向を目指して歩めることは 大きな喜びであります。(全問でなく、たとえ一問でも書いて下さると嬉しいのです。) また、最近、少しづつ提出される方々が増えてきていることは感謝です。

この日課の 学びを通して、教会の信仰の一致に到達し、主に喜ばれる群となって行くことを確信 しています。



1998年9月27日

担うことへの招き

牧師 犬塚 修

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリピ1:29)

先日の音楽研修会において、私たちは「担うこと」の重要性を学びました。 「数々の賜物に恵まれている人は多い。しかし、その使命を担い続ける人は…少ないのです。」 と静かに語られた一言が強く、私たちの胸を打ちました。

私は、主が私の罪のために身代わりとなって、重い十字架を担ってドロローサの道を歩んで下 さったことを思い出さずにおれませんでした。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪に なるまで、背負って行こう。」(イザヤ46:4)のみ言は、私たちの心に深い感動を与えてくれ るものです。どんなに将来に不安を感じていても、主が背負って下さる!と信じる時、心に喜 びと平安、そして主への感謝が湧いてきます。そして、私たちもこの愛する主のみ声に従いた いと切望するものとなるのです。

主は十字架上で「私は渇く」と言われました。私は最近、この叫びを「私は働き人に渇いてい る」と解釈しています。主の使命を担う人がどうしても必要なのです。「この私は主のために 何ができるでしょうか。」と祈ることです。キリストを信じることはすばらしいことです。し かし、それにとどまらず、主のために共に苦しみを覚悟することは更に良きことです。主のみ 体である教会のために、自分のできるベストを献げて、支えていくことは、実に恵みに満ちた 業であります。

「担う」とは、決して楽ではないかもしれませんが、教会の土台を形成するも のです。結果を恐れず、一途に主の業に励むのです。自らを犠牲の供え物とみなしたパウロの ように勇ましく生きて生きたいものであります。

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