巻頭言
2023年9月


2023年9月3日

「洪水の予告」

犬塚 修牧師

七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。…雨が四十日四十夜地上に降り続いた…。   <創世記7章>

 なにゆえに聖書の民は、こんな洪水物語を彼らの書に組み入れたのだろうかと思います。聖書がまとめられる前から各地に残された洪水物語は、そういった出来事が実際にあったことの名残でしょう。チグリス・ユーフラテス川などの河川に挟まれたメソポタミア(河の間)で生きる人々にしてみれば、氾濫も洪水も確かに大きな脅威であったはずです。文字が生まれる前、つまり歴史が綴られる前から、人々はそんな危機的記憶を物語として語り継いできました。しかし、イスラエルは…。地理的には洪水と無縁だったと思います。それでもノアの物語として創世記の最初に置いています。きっと世界は連続しえないのだという強烈な喪失体験を得ていたのでしょう。「私たちは、国が滅び、神殿が破壊されたことがある」。その体験をノアの洪水に重ねました。…バビロン捕囚です。それは創世記の編集に際して、残すべき出来事でした。▲洪水でも、地震でも、津波でも、病気でも、事故でも、世界的でも、局地的でも、個人的でも、死に触れられるような渦中にある者にとっては、それこそが世界の終焉であり、終末です。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12章)驕ってはならないのでしょう。▲最近、若くして突然に召される方が多く、気落ちしています。遺体に触れ、横で祈り、司式とその準備で震えています。澱のようなものが心に溜まっていくのを感じています。自分で勝手に連続する世界を描いていました。世界はそうではありませんでした。しかし、ノア…。それでも「ノアの物語」は、慰め(ノア)の物語でありました。意地であっても信じたいと思います。 「これはノアの物語である。」創世記6章9節



2023年9月10日

「洪水の終わり」

犬塚 契牧師

「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。   <創世記8章>

 創世記8章。ノアの洪水の終息を読んでいます。大水に揺れた箱舟が大地に着地しました。カラスが放たれた時にはまだ地は乾いていませんでしたが、鳩はオリーブの葉を加えて戻り、やがて帰ってきませんでした。ノアは地におりて、犠牲をささげます。燃やされる煙の匂いをかいだ神の言葉が上記の箇所でした。▲んっ?おやっ?あれっ、変わっていない…。洪水が起きた理由は6章にありました。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって…」。しかし、洪水後の8章を読むかぎり、人は変わっていないようです。洪水にて世界を造りなおすという神の試みは失策であり、大失敗だったのではないかと思います。大水は地を流しましたが、何も変えはしなかったのです。…「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」。それでも、ゆっくりと読むときに気づかされることがあります。最も変わらなくてはならぬものが変わらず、変わらなくてもよいものが変わる、決して変わってはならぬものが変わる。折れなければならないものが折れず、折れてはならぬものが折れる。降りなくてはならぬものが降りず、降りてはならぬものが降りる。唯一、ノアの洪水の物語で変わったものがあるとすれば、神ご自身でした。あり得ない出来事の記録でした。▲自らを見つめれば、そのとおりです。180度の悔い改めは、2回続けて元に戻ります。開き直りたいのではありません。ただもう呪いを用意されず、祝福を望まれる神の御想いを近くに触れたいのです。


2023年9月17日

「約束の虹」

犬塚 契牧師

神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。               <創世記9章1?17節>

 9章でノアの洪水物語が終わります。「ノアの物語」は読み終えてみれば、神の祝福先行物語でした。怒り、震え、裁き、赦し、耐え、恵む、そんな神の御想いが見事に滲み出ていると思って読みました。ただ、受け手である人間のその感度の低さは致命的です。そして、今も変わらず致命的です。他人事でなく、自らの見えぬ目、聞こえぬ耳、感じぬ心、震えぬ魂を知らされて書いています。しかし、残念ながら、感謝なことに、絶望はしていません。それでも神のできることのすべては祝福であり、そうあり続ける神であることもノアの物語から知らされているからです。やはり慰めの物語でした。それは、主イエスキリストの受肉、十字架、復活へと続きます。▲「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とは、1章に既出です。ただ9章に「恐れおののき」と加えられています。洪水後から人は肉食になったようにも書かれています。動物と人に緊張関係が生まれます。人は犠牲を上に生きざるを得なくなりました。無傷、無垢では生き得ません。「誰にも迷惑をかけずに生きる…」は、謙虚さでなく、傲慢な自己認識でしょう。そこにはやはり緊張が残ります。それでも…生きる、生きるべきなのでしょう。神の青空のサインのごとく、人の如何に関わらず、突然に虹が現れます。本当に一方的に。



2023年9月24日

「ノアと息子たち」

犬塚 契牧師

あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。…こう言った。「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」 <創世記9章1-17節>

 「神に従う無垢な人」(創6:9)であったノアの醜態が、遠慮なく書き残されているのを読むとき、民族の闇、黒歴史に蓋をしない人たちの現実感を覚えます。後のモーセにしろ、ダビデにしろ、その透徹した目から逃れ得ませんでした。人間賛歌の装いを早々に取り除き、人間の惨めを見つめつつ、それでも先にあった神の御想いへの信頼を感じます。聖書はすこしも武勇伝の列挙ではありませんでした。▲創世記9章後半は、「原因譚」(げんいんたん)と言われます。現在に進行している事実を過去の出来事から説明しようとする試みです。裸の父を笑った末っ子ハムは、子どもの名前でノアから呪われていきます。自分の失態を棚に上げて呪うノアもどうかと思いますが、ハムの子と言われるカナンは、イスラエルとの対立関係へと歴史は進んでいきます。書かれた当時のイスラエルの周辺環境が影響を残しているのでしょう。そんな原因譚を覆って、それでも続く10章には、世界に広がる「ノアの子孫」が続きます。すぐに忘れてしまいますが、皆あの洪水を生かされてきた祝福の民でした。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(8:21)と神が誓った民でした。人は悲しいかな、呪います。神は嬉しいかな、祝います。きっとそうなのです。「『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』マタイ11:17




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