巻頭言
2021年9月


2021年9月5日

「立ち帰れ、立ち帰れ」

犬塚 契牧師

 「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 <エゼキエル書33章10-15節>

 神が味方であることの証拠だったはずの神殿がいよいよ崩壊したとの知らせが届いた33章を境にして、裁きの預言から、慰めの預言へとエゼキエル書はトーンを変えていきます。33章は18章で読んだ言葉が繰り返されていますが、同じように聞いたわけではありません。実感があります。その時、分からなかった言葉が後々心に留まることがあります。その時、聞き飛ばし、読み飛ばした言葉が危機の中で初めての響きを持つことがあります。33章は、あらためて聞かされた預言の言葉でした。▲キリスト教信仰というのは、白黒をつけて生きるのでなく、グレーを生きぬく力、灰色を生かされる力だと思っています。絶望の黒色に染めてしまいそうになる現実の中でありながら、一方で逃避と幻想のような白に勝手に上塗りすることなく、心を静め、耳を澄まし、それでも「生きよ」といわれる方のうながしの声によって、生き心地を取り戻していく歩み…私たちの信仰生活は、そんな繰り返しに思います。人がたとえ「死ね」と言おうと、たくさんの人がそうささやくように聞こえようと、いや自分だって死んだほうがよかろうと思ったとしても、33章11節のように聞いていくこと。つまりは、「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」に心を沈めて、静めていくこと。



2021年9月12日

「主こそ真の牧者」

犬塚 契牧師

 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。…わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。            <エゼキエル書34章1-16節>

 神殿崩壊後の33章からは、裁きのメッセージから慰めのトーンへと変化していきます。34章10節までの前半は、施政者たちへの糾弾がされています。「…わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。」(8節)イスラエルの指導者たちにして、自分が贅を尽くすことには躊躇いがありませんでした。それは、現代においても然りです。世界を巻き込む悲劇の大戦も長期化する内戦も突然のクーデターもその内実は施政者たちの既得権益への執着や利権争い、そして面子であることがほとんどのように思えます。省みて、それは私にとってもまた対岸の火事ではなく、日常の葛藤でもありました。「私を大切にしなかった…」つまらぬ拘りに半日を無駄にしています。▲施政者たちの悪政は、国を荒廃へと導きました。北イスラエルはすでに、南ユダもいよいよ国を失うのです。自縄自縛、自業自得、因果応報、自己責任…きっとそういうことなのです。神も見捨てたであろう姿があります。▲しかし、預言者を通して響いてきた言葉は意外です。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(11節)鎮座して見物する神ではなく、なりふり構わず探し求める神がおられるというのです。思えば、聖書の登場人物は皆が皆探されて使命を果たした者ばかりです。例えば、人生の幕を逃亡者として閉じようとしていたモーセは、はるか遠くミディアンの荒野で見つけられました。ザアカイはイチジクの木の上に見つけられました。▲探される神は、さらに良い牧場と肥沃な牧草地で養われるとも語られます。そんな約束に反して、現実はゴツゴツとした岩地を生きてきたと思われるでしょうか。きっとそれも本音でしょう。ただ、ただ、そこもまた豊かな牧草地であったと言えはしないでしょうか。願わくばそう…。


2021年9月19日

「主が立て直す日」

犬塚 契牧師

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。 <エゼキエル書36章22-28節>

 「これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ』(20節)国が滅び、神殿を失ったイスラエル民への嘲りの声が聞こえてきます。ほーら、見たことか。あれがヤーウェの国の有様だぁ…。直面している現実は、神の罰を知らせているようです。ここに至る必然も感じていたことでしょうか。少なくとも晴天の霹靂ではなかったことでしょう。自縄自縛、因果応報、自己責任…言われればその通りで、蒔いたものを刈り取っているのです。36章は、国の回復と民の清めという慰めのビジョンが書かれていますが、不思議はその理由です。「お前たちのためではなく」、「わが聖なる名のために」と行われるのだと。同情でも憐みでも共感でも愛でもなく、ただ「わが聖なる名」のためにです。「神様はそんなに有名になりたいの?」文字だけを追えば、そんな質問が出てきそうです。この「神名定型句」と言われる書き方は、エゼキエル書で6か所しか出てこない大切な表現でした。神の聖なる名とは、神ご自身のことであり、神の本質そのものです。ならば、神が神たるゆえに、神は行動されるのだということでしょう。そこには、「お前たちのためではなく」とありますから、私たちの如何が邪魔をすることすらできないのだと読んでいます。もし私たちの如何が問われるならば、省みて廃墟と絶望しか残り得ません。「お前たちのためではなく…」の安堵があります。この個所は、神の自己顕示の強さではありません。「生じさせる」「有らしめる」ヤーウェの神の御想い・その迫力をここでは覚えたいのです。▲この神の御想いは、文字も預言も超えて、やがて主イエスキリストの出来事へと繋がっていきます。そして、主イエスの想起に、石の心がやわらかくされていくのだと思います。



2021年9月26日

「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」

犬塚 契牧師

 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」…わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。…また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。 <エゼキエル書47章1−14節>

 「これらの骨は生き返ることができるか」との主からの預言者への問い。骨は、無理でしょう。カラカラに乾ききった骨が生き返るのは不可能です。普段を思い起す時に、順調な時はともかく、つまづきの石が2つ、3つ重なると、もう意気消沈してしまうような者です。あーもう駄目だ、やっぱりだ。恥ずかしいばかりの負け癖…。だから、枯れた骨の前に立たされた預言者の絶望感は想像を超えます。足裏から虚無に吸い込まれるような不安感、立っているのか、座り込んでいるのか分からないような心細さ。一切の虚勢が拒否され、虚栄すらもたげず、なまじっかの希望もすでに打ち砕かれています。しかし、その故に預言者の口からは人間の無力の告白が沸いてくるのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。あまりの無力の告白と死の勝利の承認でした。それは、「神のみぞ知る」などという、現実を彼方に追いやった、成り行きまかせの第三者的な放言ではありません。この預言者のはらわたには、なお「主なる神よ、あなたのみが…」という「我と汝」の関係が残り、一切を委ねる信仰へと向かうのです。預言者は、枯れた骨への預言の言葉を与えられていきます。▲枯れた骨とは、絶望するイスラエルの民たちでした。エゼキエルの幻において再び生き返っていく姿が描き出されます。12節以降、「連れていく」「住まわさせる」とは、かつての出エジプトやカナン導入を思い起こさせる言葉でした。繰り返される復活の物語知らされます。累々とうずたかく積まれた枯れた骨ですら、一つの通過儀礼へと変わり、人々が回復していく。克服されていく。再生されていく有様を知らされるのです。




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