巻頭言
2020年9月


2020年9月6日

「すぎこし」

草島 豊協力牧師

 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つこ とがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたので ある』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。 <出エジプト記12章21?28節>

 コロナ禍で新しい挑戦や気づきもあるようだ。しかし新たな差別が生じ、変化すること自体が苦しい人々もいる。わたし自身は「しんどい」と感じ、ときおり「もうこんな生活いやだ」と叫びたくなる。私たちは神に叫びたい気持ちがあっても一方で不満はだめだ、それは不信仰だと思ってはいないか。今日お話したい事は、「苦しいときは神に叫ぼう『何とかして!』と。そして神の声を聴こう」。 今日の聖書箇所は、脱出物語のクライマックスの静かな夜の出来事。夜があけると大脱出が始まる。人々はモーセに素直に従っている。しかしこれまでを振り返るとモーセもイスラエルの人々も、神にすんなりと従って来たのではなかった。私たちと同じように、悩み、迷い、不満を言い、叱られて、励まされて、それで何とか乗り越えてきた。だから私たちも苦しいときに「苦しい」とつぶやくこと、「助けて」と叫ぶことは大切だ。しかし本当に苦しいとき、自分が苦しいことに気づきにくい。「不満はダメ」と考えているとなおさら我慢してしまう。そうではなく「神さま、助けて」と叫びたい。そんな叫びこそ祈りではないか。叫ぶからこそ神の返事に耳をそばだてて心を向けられるのだから。 旧約聖書の歴史は、ろくでもない人間をそれでも神が「いとおしい」と見捨てなかった歴史といえる。イスラエルの人々が特別立派で、信仰深かったから神が助けたのではない。弱く愚かな人間をこそ神が救ってくれた。だから私たちは神の前で立派になろうとするのではなく、叫びながら与えられている神の恵みに感謝していく、そんな生き方をしたい。今、この時の神のメッセージを求めながら。



2020年9月13日

「疑いようもない神」

犬塚 契牧師

 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、…モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。…昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。 <出エジプト記13章17−22節>

 神が、まるで子どもを遠足に送り出す親のように心配をする姿があります。エジプトの要塞が並ぶペリシテ街道は、カナンへの最短ルートでしたが、出エジプトを果たしたばかりイスラエルの民には酷であろうと判断しました。最強のエジプト軍に恐らく怖気づいてしまうだろうと。全能である神が、民の心変わり「後悔」を心配し、帰ろうと願う「かもしれない」不確実性を考慮にいれ、「…思われた」様子に、まるで人間の親がたびたび右往左往するような「何をしたらよいのかわかない」姿が浮かんできます。そして、記事は進み、ヨセフのミイラが400年ぶりに引き出されて脱出の民の前をいくようすが描かれます。それは、ヨセフの悲願の成就以上に、「かならず顧みられる」神の誠実の象徴でした。その後に、雲の柱、火の柱という明確で圧倒的な神の力強さで13章は閉じられていきます。▲13章の後半を読みながら、おろおろする神と凛と立つ神、過保護の神と力の神、その間に「必ず顧みる」神の誠実が挟まれているように思います。複雑怪奇で自分自身でもどうしてよいかわかない者に対して、神もまたどうしてよいのかわからないのではないかと。神もまた右往左往くださるのだと。しかし、神が一つ決められていることあるとするならば、ヨセフの亡骸に象徴される顧みの約束です。そして、どうしてよいかわからなかった神は、今、主イエスを通して私たちの内に。 



2020年9月20日

「外からの風」

犬塚 契牧師

 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。…モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。<出エジプト記18章17-27>節

 モーセのしゅうとでミディアンの祭司だったエトロが、エジプト脱出という娘婿の大事業のうわさを聞きはるばると旅してきました。娘チッポラの夫モーセの働きはとても素晴らしいものでした。「エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで、言った。「主をたたえよ…」(9-10節)ミディアンの祭司は、ヤーウェを信じる者ではありませんでしたが、世界最強を誇るエジプトからの自由という偉業を知って主を讃えるのです。しかし、翌日のモーセの前に列を成して裁きを待つ民たちを見て、「あなたのやり方は良くない」と語り始めるのです。▲おおよそ気が付きにくいことですが、人は欠けがあるから共にいることができるものです。相手に理想を重ねたりしてみますが、欠けがあって、ようやくその隣に自分の居場所があるのだと知っておきたいと思います。18章のモーセはエトロからのアドバスをどう聞いたのでしょう。そこに葛藤は生じたでしょうか。読みながら、モーセが、どこかくじかれなければならないこと、手放されなければならないことを考えています。これまでの苦労を思い起こせば、リーダーとして疲れたとも言えず、民の前で弱さを吐露することもできない相談であったかも知れません。神の召しをミディアンの荒野で聞いたのも、神の名を知らされたのも、リーダーであるモーセなのです。しゅうとであろうとミディアンの祭司に指示されることは不本意だったかもしれません。それでもモーセは「しゅうとの言うことを聞き入れ」ました。「あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい」(19節口語訳)エトロが伝えたのは、十人隊長から千人隊長まで立てるような方法論でも、組織論でも、リーダー論でもなく、あくまでも「神の前に」いることだったと思います。まさか弱さを知らされることが、共にいることの接着剤となるとは知りませんでした。それは「神の前にいて」見つめさせられ、知らされる作業であり、私たちの周りにも満ちている神秘です。



2020年9月27日

「十戒−新しい生き方」

犬塚 修牧師

 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)<出エジプト記20章1〜17節>

 万物の造物主、宇宙の創造者が「十戒」を「あなた」に与えられた、とある。「あなた達」ではなく「あなた」に対してである。神は「あなた」を他者とは、比較できない、ユニ―クで、高貴な存在として愛される。その事実を知る時、私達は、自分自身に本当の自信を持てるようになる。神が自分を、苦境から導き出し、豊かな将来を与えて下さる事を信じるからである。▲「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」(一戒) 「十戒」は厳しい禁止命令と言うよりも、私達に対する神の深い愛と信頼を示したものである。「あなたは、絶対に罪を犯すな。もし犯すなら、必ず罰する」ではなくて「わたしはあなたを信頼している。わたしはあなたが罪を犯さないように、守り導く決意をしている」という神の強い愛の意志が込められている。この「一戒」も「あなたが、わたしから離れ、他のものに心変わりをする事を信じない。たとえどんな辛い事が起ころうとも、あなたはわたしに従う信仰の人だ」という意味である。それ程、神に信頼されているなら、私もその期待に応えたいと決意できるのである。確かに、私達は弱さのゆえに、誤って失敗する事もあるが、それでも、何回も悔い改めて、再出発する事が許されている。▲「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」(二戒) 当時「偶像」は、力あるモノの生命が、その像の中に宿ると信じられていた。それ故に、偶像は人間を支配し、奴隷にしたのである。人は目に見える偶像に従属しやすい。私達は心を束縛し、支配する偶像を打ち砕くべきである。目には見えない神は、風のように自由自在な霊であり、永遠の力に満ちておられる。神の全能なる御力を、偶像という小さな像の中に閉じ込めてはならない。▲「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(四戒)これは、一切の重荷から、解放され、自由なる者として生きる事を教えている。心身共、深く休む為には、全知全能の神が、私達と共にいて下さる事を確信し、真摯に従う事が肝要である。




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