巻頭言
2019年9月


2019年9月1日

「教会組織40周年記念会にて」」

犬塚 契牧師

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。  <創世記28章15節>

ヤコブは、毛深い兄エサウに扮して、視力の弱い父イサクを騙し、財産を奪い取りました。確信犯であり、オレオレ詐欺です。兄エサウは、本気で怒り、殺してしまおうとヤコブを追います。兄の手が届かぬ場所に着きましたが、それは神の祝福からも遠い所に思えました。もう駄目でしょう。神の目も手も届かぬ場所のはずでした。しかし、そこで上記の言葉をヤコブは聞くことになります。▲教会組織40周年なので、昔の総会議事録や教会組織の関係資料を取り出して読んでみました。それらは無機質な記録であって、読み物として工夫され、小説のように仕上げられているわけではありません。それでも、わら半紙の行間に、決議と決議の間に、時の流れの間に、いろいろなものが滲みこんでいるのを感じます。信仰も弱さも自我も熱心も盲目も怠惰の謙虚も誠実も…滲みこんでいます。人のできることの、人のなすことの、不十分さを覚えます。プロテスタントの日本宣教160年の歴史に途中から参加して40年を経ました。感謝と共になおなお、「何をしているのかわからずにいる」のです。やがて、80年を数えて、誰かが私たちの歩みをみれば、ハラハラとしてまた読んでくれるでしょうか。そして、その折り重ねられた営みのうちに、ヤコブの告白と同じように、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」と言ってくれるでしょうか。少なくとも今日まで導かれ、今日に祝うことを赦された私たちは、そう告白するものでありましょう。



2019年9月8日

「サバイバーたちの物語」

草島 豊協力牧師

士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。<ルツ記1章1-7節前半>

ルツ記は男性中心のイスラエル社会の中で一家の男性たちを失い苦境に陥った女性たちの生き残りの物語だ。この時代に圧倒的に弱い立場に置かれている女性たちが周囲の助けを得て、したたかに運命を切り開いていく。登場人物たちは苦境の中で必死に生きていくが、だからといって自分のために誰かを犠牲にするのではない。むしろ優しさ、友愛、慈愛に満ちている。ここで「慈しみ」「真心」と訳されるヘブライ語の「ヘセド」が、ルツ記の物語全体を覆っている。ヘセドは、正義感に基づく思いやりや深い関心から生まれる誠実、真実の愛を意味する。 そしてルツは決して「従順に従う嫁」ではない。ナオミと一緒に帰ってくるときも、むしろわがままをいってしがみついてきた。ルツの愛情と思いやり、そして行動力が描かれている。ナオミも苦境の中でそんなルツに支えられながら、町の女性たちに支えられながら、人生を切り開いていく。古代のイスラエルには一族を維持するための様々な慣習、制度があった。ルツ記ではその制度に女性たちが犠牲になるのではなく、むしろ女性達が制度を利用し、したたかに制度をかわしていく。しかもそれを神ご自身がよしとしている。ルツ記では神が表立って登場しない。しかし彼女たちの生き様を祝福し、彼女たちのいのちを支えている。私たちは「信仰」というと自分を無にして従うことや大きな犠牲を払うことを思い浮かべるかもしれない。しかしルツ記に描かれている信仰者たちの姿は少し違う。ひとが周囲の助けを得ながら必死に誠実に生きていこうとする姿である。そしてその営みを神が支える。ルツ記には人と人との間の慈愛、神の人間への慈愛が物語の背景に広がっている。 



2019年9月15日

「取り返しがつかない罪と」

犬塚 契牧師

ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。 <創世記45章>

ヨセフがエジプトで随分と出世したものだから、兄弟に売られた日のことを忘れてしまいます。本気で兄弟たちから羽交い絞めにされ、罵倒され、懇願が届かず、嗚咽の涙も響かなかった日がありました。その後、言葉と文化の違うエジプトでヨセフはギリギリに耐え抜いてきたのです。ある日、飢饉に苦しむ兄弟たちがエジプトに食料を求めて会いにきて、忘れがたい言葉と痛みが蘇ってきました。疑心暗鬼と動揺があります。しかし、44章の兄ユダの懇願を呼び水にして、ヨセフは兄弟たちも苦しんでいた事実を知るのです。そして、45章のヨセフが身を明かすことにつながります。「取り返しがつかない罪」は、ただただ赦してもらうしかありません。償いも賠償もその後の素行も悔い改めの実ですら、赦しとは関係がありません。ただ赦してもらうしかありません。ただ、ただ…。恐ろしいほどの厳粛な事実を思います。▲日韓関係が最悪と伝えられています。戦後70年を過ぎました。侵略の歴史を振り返って、やはり赦してもらう立場であると思います。あと1000年かかるとしてもです。▲赦すものが失う多く、捨てるべき憎しみと恨み、手放さなければならない強い力、あるいはいのち…そんなことを考えます。ヨセフの号泣の理由を考えます。赦すものが多く失うのです。▲私は前科者であることの認識を持っています。認識を超えて事実です。自暴自棄、路頭に彷徨うがふさわしくあるでしょう。しかし、神の失った主イエスキリストの姿に、ただ今日を生きる心を得ます。



2019年9月22日

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」

犬塚 修牧師

「まことのぶどうの木」であるイエスを信じ従う人は、人生に豊かな実を結ぶ人となる。天の父も思慮深い農夫として、枝である私達のために、全身全霊を尽くして手入れされる。また「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は、父がすべてを取り除かれる」(2節) <ヨハネ15章1〜17節>

ぶどうの枝は、たわわで美味しい実を結ぶために生かされている。「実」は霊の実を想起させる。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22〜23) ▲豊かな実を結ぶためには、野放図で、伸び放題のままの枝であってはいけない。農夫は、的確な観察力によって、多くの枝を思い切って剪定する。それによって、栄養は必要な枝に集中されていく。私達の人生も同様である。自分にとって、大切と思っている部分であっても、御父に剪定される事で、豊かな実を結ぶのである。御父は深い愛をもって、不用なものを切り取られる。私達の心を清め、実生活の乱れ、混沌(カオス)から、見事な秩序(コスモス)へと整えて下さる。御父の深遠なご計画を信じよう。▲「私につながっていなさい」…主イエスにつながる人(主を信じ、主の命令に従う人)は、滅びに導く欲望や、自己中心性、不信仰を捨てる事を決断する。ここに気を付けねばならない事がある。それはぶどうの木と枝の接合部分は、非常に弱く脆くて、そこに僅かな力が加わっただけで、すぐに折れる欠陥がある点である。私達の心や信仰も決して強くはなく、むしろ弱い。僅かな事にも動揺し、不安で一杯となってしまう事がある。自分は強いと誤解したり、傲慢になってはいけない。自分の弱さを深く自覚し、自分の感情、意志力、努力により頼まず、主の命令、み言葉に忠実に従い、へりくだって生きる事が大切である。▲しかし恐れる事はない。木と枝が一体であるように、主と私達は一つとされている。主の偉大なみ力と愛は、信じる者に流れ込んで来る。もし、主とつながっているならば、必ず強くされていく。主と心を一つとなる事、一切を主に任せる事である。枝が木の明確な指図を無視するならば、その木は分裂状態となり、無用となる。私達に求められるのは、主への徹底的な信頼と従順な生き様である。



2019年9月29日

「生涯の年月は短く、苦しみ多く…だとしても」

犬塚 契牧師

 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べた。ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」 <創世記47章7-10節>

飢饉ゆえにエジプトを頼ってヤコブの一族はやってきました。誇れる立場とは違うと思います。一キャラバンの長ヤコブとエジプトの王ファラオの差は、圧倒的であり、比較の対象になり得ないはずです。しかし、上記聖書箇所、ヤコブはファラオを自分の神の名で祝福するのです。挨拶前後に二度もです。同時にヤコブは自分の生涯を振り返って短くファラオに答えています。「…生涯の年月は短く、苦しみ多く…」。実際にヤコブの生涯を振り返って読めばその通りだと思います。長子の権利もイサクの祝福も奪い取り、命乞いして逃げた先で、叔父ハランに半ば騙され、結婚した妻たちや側女たちは自分の優位を競い平和に過ごすことができません。生まれた娘ディナは辱められ、息子たちはその報復を超えて、徹底的に略奪を働きました。年寄り子ヨセフへの偏愛が兄弟たちの妬みを生み、痛みとして残りました。愛するヨセフは荒野でライオンの餌になりました…。出生の場で、兄のかかとをつかむものであったヤコブの両手は、祝福を自分の手で鷲掴みしようともがいてきました。しかし、自分長い時を経て、ファラオの前で、何も粉飾をしない、正直に原寸大の自分をヤコブは晒しています。「…生涯の年月は短く、苦しみ多く…」(新共同訳)かつて、かかとをつかんだその両手は、苦労を重ねてきました。いまや、不自由な両手は、それゆえに不器用にでも神の輪郭をなぞり、祝福を祈るものとなりました。ついぞ直るべきが直らず、苦労絶えず、悲しみ多く、消え去ってしまいたい者にあって、なお祝福の言葉が残っています。ヤコブの立場と状況を考えたら不思議な出来事です。ヤコブの祝福を聞く、ファラオの不思議そうな顔が浮かびます。…だとしても、私たちの神は誠実な神です。




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