巻頭言
2018年9月


2018年9月2日

「平和の福音」

草島豊牧師

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか《と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。<マルコによる福音書 2章23-28節>

なぜ戦争が起きるのか?殺すことを正当化する状況が造られていく、という点に着目したい。例えば私が、隣りの住人を刃物で切りつけたら、それは犯罪であって処罰される。しかし戦場では、敵を憎み、ためらいなく殺す事が求められる。アジア太平洋地域に侵略していった日本の戦争では、自分たちがアジアを欧米人から解放する、アメリカ人は「鬼畜米英」と大義を掲げ差別と憎悪を煽り、人々はその流れに飲まれていった。いつの間にか思い込んでいる、思い込まされていることは身近にもあり、さらにユダヤ・キリスト教の歴史にもあった。聖書の箇所で、安息日の遵守を求めるファリサイ派の人々に対して、イエスは「安息日は人のためにつくられたのであって、人が安息日のためにつくられたのではない。だから人の子は安息日の主でもある」と言い放った。 ただし律法遵守には歴史背景がある。それは王国崩壊という民族と信仰の危機の中で、自分たちが神に立ち返り、信仰のアイデンティティを確かにしていくという歴史。なかでも安息日、割礼、食物規定が重要な柱であった。律法学者は大切な働きを担ってきた。しかし律法学者やファリサイ派のまじめさは結果として律法を守るかどうかで人間を区別し、守れない人々を排除する構造を造り出してしまった。そんなユダヤの状況の中でイエスは「ちょっとまて。神の恵みはこの人々に注がれている」というメッセージを伝えた。当時神の恵みの外にあるとされた人々と共に過ごし、人間のできる・できない、という視点の前に、神はあなたの命を理由なしに尊いとしている。私たちが「?しなければいけない」と思い込まされていく社会の圧力に対して、そんな社会の仕組み・人間の心のありように対して「そんなことはない!」と打ち破るものをイエスのこのメッセージは持っている。



2018年9月9日

「トブの地のエフタ」

犬塚 契牧師

ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で、父親はギレアドである。…エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。 <士師記11章1-31節>

「ギレアドの人エフタは、勇者であった」…弔事のように読みました。彼の生涯を振り返って書かれた言葉です。それにしても…勇者かぁ。エフタが遊女の子であることはすぐに暴かれ、他の子たちから疎まれ追い出されたこと、生活がままならない者たち同士で生きていたこと、しかし、イスラエルの危機の際には声がかかり、「頭(かしら)」になることが約束されたことが書かれています。エフタの生涯に見るのは、長く背負いつづけるような影・痛みの存在です。彼の行動と選択をみると、エフタは自分の自己証明に苦しんだように思えます。恐らくは、疑心暗鬼と不安を感じつつも、深い求めの中で、所属の回復を願いました。頭になることでそれが果たされるように思いました。アンモン人がイスラエルを攻めてきたとき、何が何でも、彼は勝たねばなりませんでした。頭となるため、アイデンティーのために。だから、自分の最大限を差し出し、神の最大限を引きだそうとする取引が始まります。それは、神も望まぬ犠牲を誓い、自分の娘をささげる悲劇へと繋がりました。「エフタは、勇者であった」…。勇者はこんなにも上遇に誕生し、追われ、負わされ、悲しき事件を起こすものでしょうか。それでも、彼はその生涯によって、やがて一人子を捧げる、神の心の痛みを知ったでしょうか。



2018年9月16日

「一番偉いもの」

犬塚 契牧師

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 <マルコによる福音書9章34-37節>

宣教旅行からカファルナウムへの帰りの道中、弟子たちの会話は褒められたものではなかったようです。家に着くなり、主イエスは、「途中で何を議論していたのか」と問いかけます。弟子たちは黙ったまま誰一人声をあげませんでした。「だれが一番偉いか」と議論しあっていたからだと書かれています。主エスの投げかけによってすぐに我が身を知らされ、恥ずかしくなったのでしょうか。誰が一番人に好かれ、誰が一番悪霊を追い出し、誰が一番力が強く、誰が一番計算が早く、誰が一番謙遜か…。一番でなければそれぞれに価値を感じことができない弟子たちがいます。愛されているなど思えはしません。価値は序列で決まると思っています。そうだとするとこの事は恥ずかしいを越えて、みじめさの露呈に思えます。恥ずかしい話は笑い話と変わるでしょう。しかし、みじめさはできれば見たくも見せたくもありません。「何を議論していたのか」の問いは、自己主張の表層を貫いて、心の陰に届くものだったように感じます。主イエスは、黙って聞いていた道中の怒りを爆発させたいのでなく、ピリピリした修羅場を作りたいのではありません。実際に子どもが寄れるような和やかさが主イエスの周りにありました。子どもを抱き上げ、言われました。「わたしの吊のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」▲モノの数に入れられなかった子どもと同じように見られることを良しとされました。そして、神もまたそこにおられるといわれるようです。先に行こうが後ろに追いやられようが、変わりなくある神の姿は、誰が一番かの議論に答えを与えます。



2018年9月23日

「待望と清め」

犬塚 修牧師

また、祝福された希望、偉大なる神、私達の主イエス・キリストの栄光の現れを待ち望む。 <テトスへの手紙2章13節>

ペトロは私達に上要なものとして「上信心と現世的欲望」(12節)を挙げている。前者は真の神を信じない上敬虔さ、高慢さ、後者は「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」等である。この2つは私達の生き方をダメにする元凶である。それらを捨て「思慮深く、正しく、信心深く、生活する」大切さを説く。「思慮深さ」は「自分を制する事、怒りや憎しみの感情に負けない我慢強さ」である。「正しく」は、語源においては神との平和の関係を意味する。▼続けて、主イエスを待望する生き方が記されている。「待望」は再臨の主イエス・キリストを恋い慕う事である。▼「待望」は「未来」へのまなざしのみでなく、「現実の受容」である。現状がいかに厳しいものであっても、そこに、神の偉大な栄光が表される場所として信じ、受け入れる事である。この「受容」が私達の生活に清めを生むのである。▼「清め」は、人間的努力によって,得るものではなく、神から賜る恵みである。浄水器はどんな汚水も、きれいにろ過する。主はこの浄水器に似ておられる。私達の罪を飲み込み、きれいにして下さる。ゆえに、イエスに結び付いた人は、いかなる辛い出来事にも屈しない。その試練を通して「清め」られ、神の栄光を現わす器となる。▼約150年前に、アメリカにスパフォードというすばらしく祝福された有徳のクリスチャンがいた。しかし、42才の時、4歳の愛息を病気で失い、同年、大火で、多大な財産を奪われ、さらに2年後には、4人の娘を海難事故で一度に失った。その絶望の中で、彼は静かなく神の言葉を聞く。その結果、彼は言い知れない神の平安に満たされ、一つの詩を書いた。それが新生讃美歌515番となった。和訳では「こころ安し、神によりて」と訳されているが、原詩では"It is well It is well with my soulーそれは良好、それは良好、わが魂において)とある。彼はwith my hear(心)とは書かなかった。ハート(心)では、どうしようも受け入れられない地獄のような苦しい出来事も、ソウル(魂)では受け入れた。ソウルとは、神の言葉に聴き、従うへりくだりの心、また再臨信仰に生きる心である。「心」も大切だが、更に「魂の人」として我慢強く生きたいものである。



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