巻頭言
2017年9月


2017年9月3日

「力を求める人と散らす神」

草島 豊協力牧師

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。 <創世記11章1-9節>

高い塔を建てるには、高度な技術、作るための富、人に作らせる政治力が必要である。古代社会の塔は宗教的建築物であると同時に、国家権力と富の象徴であった。「バベルの塔」の物語はそんな古代文明に対する批判の物語。「人の子ら」は、れんがとアスファルトを用いた技術を持っていた。彼らは自分たちの力を誇示するために、またその力が散らないように塔と町を建てようとした。しかしそんな人間に対して主は降って来て、人が何をしでかすか分からない様を見て、人間の企てに介入された。「人の子ら」の中も立場は様々である。この物語はどの立場から見るかで、意味が変わってくる。力を持ち人々を従わせて、歴史に名を残そうとする者か、またはそんな人々に強いられ力を奪われている者か。強大な国家の華やかな建築の影で利用され奪われている人々は面に出てこない。しかしその人々の犠牲によって国家が維持されている。その人々にとってはこの物語は解放の物語となる。「ひとつであること」=良いとは言えない。「ひとつである」が実は、「ひとつに強いられている」。それが現状ではないか。古代の世界でも力の強い者たちが、武力で他の人々を支配して、自分の言葉を使うことを強制していた。この塔と都市の建築においても、力を奪われている人々がいただろう。主なる神の眼差しはそんな人々に注がれている。神は、塔の建設を阻止するときに、「言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬように」された。このとき、人々は皆が望んで協力している集まりであったか。むしろ奴隷を使って無理矢理働かせているような集団ではなかったか。ことばが一つとされる影で一つに強いられている人々もいただろう。では言葉が異なると何が起こるか?相手の言葉が分からないとき、人は互いに相手を分かろうと努力するか、あるいは理解できないと壁を作って関わらないようにするか…。互いに相手を大切にして分かろうとする世界を神は求めているのではないか。


2017年9月10日

「イエス様と共に祝う祝宴」

郭 淑神学生

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 <ヨハネによる福音書2章1-11節>

「カナの婚礼」に問題がありました。人生の中で最も祝福される結婚式の宴会で問題が起こりました。結婚式の婚礼に最も重要な飲み物であるぶどう酒が底をついたのです。この婚礼が大勢の人々でにぎわって、楽しい雰囲気の絶頂のときにぶどう酒がなくなったので、もはやこの宴会はつづけられなくなる危機に陥ったのです。しかし、この宴会に参加しておられたイエス様の水を良いぶどう酒に変える素晴らしい業によって、宴会は続けられ、もっと祝福された宴会になりました。それだけではないです。この水をぶどう酒に変えた奇跡は、神の栄光を現す出来事になりました。また、イエス様が神の子であることを示す「最初のしるし」となりました。わたしは、この「カナの婚礼」で起きた出来事から、二つのことを皆さんと一緒に考えたいと思います。第一番目は、今日の結婚式の宴会に問題が起きる前から、イエス様はその宴会に参加していって、その結婚式を祝福していたことです。しかし、問題が起きる前は、宴会を主催する新郎も、宴会の世話役もイエス様に注目しませんでした。しかし、問題が起きたとき、イエス様はその問題を解決する助け手になりました。その宴会が続けられるために、いなければならない重要な存在になりました。イエス様はどんな時でもわたしたちと共におられます。イエス様の名前は「インマヌエル」です。苦しんでいる皆さんの近くにイエス様はおられます。また、2番目は、わたしたちが問題をイエス様と乗り越える過程で、イエス様についての新しい認識が与えられるということです。イエス様とともに問題を乗り越える過程を通して、イエス様が自分のことに関心を持って助けって下さる恵み深い神様であることを知るようになります。それで、わたしたちは、毎日イエス様と共に生きる人生に変えていくのです。水がよいぶどう酒に変えられたように。



2017年9月24日

「天からの光」

犬塚 契牧師

さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。 ? <使徒言行録9章1-9節>

バウロは信念の人であった。クリスチャンの群れは神のみ心に叶っていないと確信していたので、撲滅運動に邁進した。それが神に仕える者の使命とさえ考えていた。パウロの傲慢は彼の学識、エリート意識、才能の豊かさから生まれてのものであった。しかし、主イエスはこの人の高ぶりを愛をもって打ち砕かれた。天からの光を受けた時、地に倒れこみ「サウロ、サウロなぜ私を迫害するのか」というみ声を聴いた。それはイエスのみ声であった。彼は目が見えなくなり、自分を誇っていた自我が死んだ。この日以来、パウロは謙遜な使徒、愛に満ちたイエスの弟子となった。▼倒れることの大切さ―人間は人生で挫折を経験することは有益である。何でも自分の思い通りになる生き方は、人間を鼻持ちならない狂気の愚者とする。いろいろな問題で苦しみ、傷つき、倒れる人は、生きることの厳しさと痛みを知って、再生する。ゆえに、一度か二度は、未曽有の痛みを味わうことも主の恵みの一環である。▼無力な人となる。−パウロは一時的な盲目となったのは、すべての自信、プライド、などが粉々に砕かれた事を意味している。彼は古い自分に死んだ。死んだ人は、復活する。それは、もはや以前のような自分の能力の高さに依存する生き方を手放す主のみ手に導かれていくへりくだった歩みである。その人は大いに用いられる。▼復活した人―新しく生まれ変わった人は、一切のことを主にゆだねた人となる。彼はダマスコの町に入るように、イエスから命じられたが、これほど、心が痛むものはなかったであろう。少し前は、迫害し、死を宣告する目的で入場しようとしていたのに、今度は、盲目のままで入るのである。これほどの危険や屈辱はなかった。無論、身の安全は保証されない。しかし、彼は、イエスの命じられるままに、この街に入っていった。すべての結果を主に任せて。これがキリスト者の人生である。たとえ、どんなことがあろうとも、恐れず、主に従うのである。その時、私達は、主はどんなところにも生きておられ、すばらしいみ業で導かれる事を悟るのである。




TOP