巻頭言
2016年9月


2016年9月4日

「わたしはなる」

犬塚 契牧師

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」  <出エジプト記 3章>

 異国の地ミディアンで人生を閉じようとしていたモーセが神から語りかけを受ける場面。40年の王子生活の後に、40年の逃亡生活…。価値なき柴が燃え続けるのに心を奪われて近寄って知った神の情熱…。燃え尽きたはずのモーセが再びエジプトに帰り、みなを導くように召されていきます。モーセは柴に自らを重ねます。神が臨在するふさわしいのはもっと高く、貴く、見事な木であり、場所のはずです。モーセへのアプローチに、神の遜った語りをみます。それでも、モーセは神に尋ねます。「わたしは何者でしょう」。病の時、存在が脅かされる時、生きる動機に薄い時、弱さを感じる時、一日に10回、100回も、1000回もこの言葉が浮かぶものです。「どうして私は…」「私にはどうしても…」「私なんて…」、根源はモーセの問いと同じ言葉に思えます。心に針がささり、喉にとげが残るようなうめきの中にあります。その後の神とモーセの対話は成り立っていないように思えます。モーセが何者かについては神は答えられません。モーセがどれほどの者で、どんな特性があり、リーダーにふさわしく、その経験(ミディアンの40年も含めて)がいよいよ発揮されるのだ!とのほめ言葉は出てきません。「私は何者なのでしょう」「わたしは必ずあなたと共にいる」…そんなやり取りです。なんだか、心を打つ場面です。きっと、私たちの同じ問いにも、神は同様に答えられます。そして、それが決定的に大事なことなのだと思います。



2016年9月11日

「この預言者の渇望」

犬塚 契牧師

渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。」     <列王記下2章>

 預言者エリヤからエリシャに時代が移ろうとしていました。二人の別れのシーンです。エリヤは一人で神のもとに召されるのを求めました。故郷なく、家族なく、財産なく、彼が一人で神にのみ相対して生きてきたように、この召されるこの日においても、そのようにしたいと願いました。方々に散っている預言者たちに最後の挨拶を交わす旅に、エリシャは同行しています。「あなたはここにとどまっていなさい」とエリヤから言われても、エリシャは執拗に後を追いました。とうとうエリヤは、エリシャに聞きます。上記聖書個所。「何なりと願いなさい」。エリシャは答えます。「あなたの霊の二つ分を…」これは長子だけが求めることのできる権利でした。▲エリシャが求めたものは何だったのだろうと思います。これからを預言者として立って生きるのに何を渇望したのだろうと。更に、わたしたち自身においては、生きるに、何を必要と理解しているのだろうと。エリヤのそばで仕えて、エリシャは知りました。この働きは、師の並外れた能力や限りない体力、深い知性と何をも恐れない勇気から出たものでなく、ただ神の霊によるものだと。師のそばにいて、預言者の働きが何たるかを知ることができました。その振る舞いも分かりました。しかし、エリヤにあって、自分に足りないものをエリシャを感じ、それを求めました。…神との交わり。▲この箇所を読むと、自分自身が何をもって、この地を生きていこうとしているのかが問われます。子どもたちに何を手渡そうとしているのかも問われます。「神の霊・授与式」ないままエリヤは天に上げられて、エリシャは一人になりました。。残されたエリヤの外套を川に投げると神の沈黙があります。「主はどこにおられますか?」との叫び。再び川に投げると水が分れました。無言のしるしに、神の確かなともないをエリシャは知ったのだと思います。



2016年9月18日

「このしるしをもって」

犬塚 契牧師

モーセは逆らって、「それでも彼らは『主がお前などに現れるはずなどないと言って…主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」…それでもなおモーセは主に言った。「あぁ、主よ」…主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか」…モーセは、なおも言った。「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」…主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。   <出エジプト記 4章>

 出エジプト記3章は、40年間異国で寄る辺なく生きてきたモーセに神が現れるシーンがあります。読むほどに、旧約聖書の中でも特に感動を覚える場面だと思います。しかし、続く4章。上記聖書個所のようにモーセは余りにも頑なです。聖書に登場する召命のシーンでもこれほど長く抵抗したリーダーも弟子もありません。モーセはいろいろと神のオファーをかわそうとしますが、最後に本音が漏れています。「ああ主よ、どうぞだれかほかの人を見つけて…」。結局にモーセは、行きたくなかったのだと知ります。モーセの傷も弱さも闇もあまりに深いものでした。ちょっとやそっとで溶けないものがありました。否、神が柴を燃やすアイデアから始まって、「ちょっとやそっと」ではない関わりがありました。しかし、それでも溶けない心がモーセにありました。足が前にでないのです。心が上に向かないのです。そして、「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた」▲神が間近に迫って怒るならば、人は震え上がるのだと思います。だから、有無もなく渋々と命令に従う…モーセの召命は、そんなシーンなのでしょうか。出エジプト記4章を読むとき、神の誘いとは、何かと問われます。モーセも頑なですが、神もまた執拗です。やはり、神ひとりで成したほうがスムーズに事は運ぶようにも思えます。しかし、神はひとりではされません。どういうわけか人とともに行うことを望まれます。ともに涙を流す人を求められます。ともに涙を食べる人を喜ばれます。この神の執拗さは、神の人の痛みを知る心ゆえであることを思います。「ともに涙を食べる人」を神は、あらゆる方法をもって、導き、助けてくださると知りたいと願います。



2016年9月25日

「永遠の命を受け継ぐ者」

犬塚 修牧師

「キリストイエスの恵みによって義とされ、希望通り永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」  <テトスへの手紙3章7章>

 永遠の命は「神の溢れる命」である。この世の命は一時的であり、限界があるが、神の命は恒久的であり、死の力を飲み込む程の絶大な力に満ちている。この命を得るためには、どうしても通らねばならない関門がある。それは、自分の罪深さを深く認める事である。心が高ぶり、神の助けを必要としない生き方をする人は、永遠の命への渇きがないので、受け入れる事ができない。自己満足、自己充足は心が神に向かないのである。神から離れてしまうと、恐ろしい末路を辿る気がしてならない。なぜならば、人間は神に向かって生きるように創造されているので、その秩序を破壊する事になるからである。己れの力に依り頼んではならない。パウロは「私たち自身も、かつては無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりこになり、悪いとねたみを抱いて暮らし」(3節)ていたと赤裸々に告白している。この深刻な悔い改め、自己省察、自己否定が、永遠の命を得るために非常に有益なのである。人生の深い傷こそが、神の祝福の出発点となる! 完全な生き方ができる人は天が下に一人もいない。皆どこかに悲しみや失敗、苦悩、失望感、絶望などを変えながら生きている。普段はそれに目を向けず「大丈夫!」と自分を安易に慰めて生きてしまう。それでは何の根本的な解決がなく、問題をこじらせているだけである。しかし、主にあって希望を持とう。危機は恵みに変えられるチャンスともなるのだから。天地創造の「創」は「傷」という意味を持つ。人生の悲しみや失敗も、神への信頼によって、最善に変えられるのだ。パウロの告白を知ると、彼はさらに深い苦しみに襲われたのではないかと、危惧するかもしれないが、決してそうにはならない。4節から突然、まるで人間が変わったかのように、神の恵みを宣言されているく。どうしようもない私たちを十字架の贖いによって救い、新しい人生を切り開かれたのは神ご自身である。パウロは使徒とされたのは、永遠のいにしえからの神のご計画であったと述べている。(1節) それは新生した者の自己洞察である。私たちもこの自己理解が不可欠である。私たちはこの世に偶然に生を受け、陽炎のように去っていようなく淡く軽い存在者ではなく、永遠の価値が与えられた重いかけがえのない存在者とされた。それゆえに、私たちはイエスキリストの恵みに支えられて、永遠の命を相続して生きる事が大切である。生活において決してこの永遠の命の主から離れてはならない。




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