巻頭言
2015年9月


2015年9月6日

「確かに、ゆるやかに」

犬塚 契牧師

 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 <マルコによる福音書 4章26-29節>

 マルコしか記録しなかった「神の国」のたとえです。後の福音書記者たちは、イエスキリストのただの自然賛歌と思ったのかもしれません。それ以上の価値はないと…。前のたとえ話では、種は道端に落ちたり、石地に阻まれたり、鳥に食べられたり、いばらに塞がれたり…。結構、ハラハラしました。しかし、今回は知らぬままに、ひとりでに、実を結ばせるたとえ話となりました。集った人たちは、どこか慰められ安心して家路に着いたでしょうか。それとも、あまりソフトな神の国の描き方に物足りなさを感じたでしょうか。もし、私がその聴衆ならば、イエスキリストが語られる背後に広がった草花や畑に目を向け、知らぬところに働く神に支配に静かに感動する者でありたいと思います。しかし、旧約聖書からイメージされるような力強さ、勝利と明かな奇跡と峻厳なる恐れをどこか求めたかも知れません。▲受け入れがたい出来事や思いを超えた事柄に対して、あらゆる理由を考え、説明を求めて生きています。必要な求めであり、祈りへと続く飢え渇きだとも思います。しかし、また「さようならば」と受け入れる、神への委ねのことも浮かびます。▲人はどこまでも追い詰められてならないと思います。悩むべくを悩み、痛むところが痛んだのであれば、あとは横着をもらってもいいのではないかと思うのです。「どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに…」なんだか、温かく響きます。終わりの見えない負のループに一度入るとなんと一人で出るのは難しいことでしょうか。それは、ほぼ不可能にも思えます。人の助けが必要です。それもまたいのちを与える神様の働きの中にあることです。



2015年9月13日

「神を見失う」

犬塚 契牧師

 主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。」 <出エジプト記 32章7-8節>

 荒野の40年、出エジプトを果たしたイスラエルの民の消せない傷、金の子牛事件。指導者モーセの顔が見えなくなって40日、リーダー不在で人々は不安を感じ、アロンに見える神の鋳造を迫まりました。アロンが乗り気だったとは思いませんが、アロンは民衆の空気を読んだのでしょう。いなくなったモーセの後継者を探すでもなく、神に問うでもなく、人々の要求に応えようとしました。後の弁明も含めて、残念なアロンの姿です。▲金の子牛の記事を読むと偶像礼拝への警告・戒めと受け止めてきました。そして、自分の「金の子牛」とは何かと問われます。しかし、自分たちで作った子牛を本当に信じられるのかと疑問にも思います。どこか、まがい物の悲しさがあります。偽物のにおいがします。手中に収まった神が都合のよいように思えて、きっと力はありません。何かの気休めになればよい程度です。彼らは、そんな気休めにしか過ぎないものを、さも大事なふりをしたのではないかと。金の子牛に何かを願うでなし、祈るでなし、ただ飲んで騒ぎのみで、真に相対することもなく…。都合のよい神など、ほとんど信じていないのです。それでも、人は神の本音を知らぬ時に、空しきものに心惹かれるものだと思います。▲じっくりと読むとモーセと神との32−33章の対話は美しく響きます。モーセの懇願、神の戸惑い、譲歩と信頼、覆う神の愛ある帰結。これが「金の子牛事件」を発端にしてのこととは信じられないくらいです。



2015年9月20日

「父の涙」

犬塚 契牧師

 神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。…神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 <創世記21章9-21節>

 21章前半は、いよいよのイサク誕生の記事があり、サラの喜びが溢れます。しかし、同じ章の後半は修羅場です。イサクが乳離れしたは3歳くらいであったでしょう、そのイサクを10歳以上離れた女奴隷ハガルの子イシュマエルが「からかって」いるようにサラには見えました。そして、それはやがてイシュマエルとハガルがアブラハムの祝福を奪っていく道に続いているかのようでした。サラは笑う人から、一転、鬼へと変わり、ハガルを追い出します。アブラハムは二人の息子とその母たちの間で、非常に苦しみます。ハガルは悲しみのあまり生きることを放棄します。▲誰もがそれぞれに与えられた神の約束を疑う者となりました。約束への信頼よりも恐れが先に行き、人への疑心暗鬼と変わります。いい加減に堪忍袋の緒が切れた神の登場があるのでないかと思えます。自分たちで蒔いた種の結果、痛みの実を刈り取っています。神が怒らぬつもりなら、せめて沈黙で事の大きさを知らしめるのが神の知恵ある選択に思えます。▲神は、恵み忘れて鬼と化したサラを咎めはしません。やはり、人の心は捉え難く病んでいます。アブラハムの過去をほじくりはしません。「くるしまなくともよい」と言葉をかけます。ハガルを悲観を叱りはしません。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない」と慰めに徹します。▲フランス文学者の森有正の言葉をを思います。「人は誰はばからず語ることのできる観念や思想や道徳と言ったところでは、真に神に会うことできないのです。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人は神に会うことはできないのです。」▲人のどん底を神は出会いの接点とされました。約束確認の場面と変えました。



2015年9月27日

「栄光の教会」

犬塚 修牧師

 教会はキリストの体であり、すべてにおいて、すべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23節) <エフェソ書1章15〜23節>

 世界の七不思議の一つに数えられたエフェソ(現在のトルコの西側)のアルテミス神殿には巨大な女神像がそびえ立ち、市民生活を支配し、道徳面でも 多大な悪影響を与えていた。不品行と金銭への飽くなき欲望などが彼らの心を虚無や無責任な生き方に服させていた。数年間、ここで伝道したパウロ は、この現実を熟知していたが、悪魔の悪計に抗して、忍耐強く戦い、勝利を得るためには、新しい、確固たる世界観が必要と知っていた。このパウロ がエフェソ教会の信徒を励ます目的でこの手紙を書いたのである。▲ 私達はどうしても過酷な状況を憂い、問題点を指摘して、必死で解決しようとす る。しかし、その結果、心が疲れ果て、失望落胆してしまう事はないだろうか。彼はまず現実の厳しさを取り上げるのではなく、溢れる感謝を初めに 持ってきている。感謝とは「天地創造の前からの選び」という確信から始まって、神の完全な支配と守り、豊かな将来、絶大な力で支えられている現 在、キリストの贖いによって清められた過去などについての数多くの感謝であった。考えてみれば、感謝する事は実に多いものである。確かに、パウロ の「心の目」は現実を超えた神の絶大な歴史支配に向けられていた。▲一章では、ほとんどの文章は「神」が主語となっているように、教会生活で大切 な事は神の豊かなみ業を深く思い、感謝する事である。自分自身が次第に小さくなる時、教会は神の栄光で輝き始める。もし人間が高慢に陥って、他者 を残酷に裁くようになると、栄光の教会は失われる。ラファエロの作品「エぜキエルの幻視」には、キリストが巨大であるのに比べて、エゼキエル自身 は極小に描かれている。ここに、彼の信仰の深さが感じ取れる。▲教会はキリストを頭とする体であり、神が働く場である。場に求められるのは、自分自身を明け渡すことである。その時、神はご自身を現され、すべてとなられる。「すべて」は、私達にとって、善、悪、幸福、不幸、光、闇などのあら ゆる領域において、神が完全に支配して下さる世界である。このことを確信するならば、絶対的な平和を取り戻す事ができる。すべてを支配される主が 極小の私達と共におられる事実は、すばらしい祝福以外にないと、心から感謝せずにおれない。




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