巻頭言
2014年9月


2014年9月7日

「賛美へと変わる」

犬塚 契牧師

 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 マルコによる福音書 2章1-12節

 少しずつ読み進めているマルコの福音書。今日は2章。ガリラヤ湖に面した港町カフェナウムにイエスキリストが戻られたと聞くと、人々が集まってきました。すきまのないほどの人だかりがペトロの家にありました。そこで主イエスは「御言葉を語っておられ」たと記されています。診療所でもお祓い所でもなく、御言葉を語る場所とされました。そこに体が自由に動かない中風の人が4人の友人に連れてこられます。友人たちは屋根に上り、梁と枝と草と泥でできた屋根をはがし始め、寝たきりの友人を屋根から吊るしました。イエスの前に、下された病人は、そこで罪の許しの宣告を受けます。そして、体の癒しもまたその証拠としてもらうのです。▲彼らはなぜ待てなかったのだろうと思います。集会が終わって、人ごみが去って、一息ついて、涼しい風が吹く頃でもよかったのでは、と思うのです。今日、明日の命という病でもありません。長いことの体の不随でした。しかし、他人の家の屋根をはがして、真下の集会に混乱を与え、下からどんな声が聞こえてきても、求め続けたのです。けれども、彼らには緊急性がありました。先にイエスキリストが伝えていた御言葉があります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。彼らは信じようとしたのだと思います。もし、本当に神の支配が近づいたのだったら、待っていられない、ここまでも届くのですね。この病をもつらぬく福音があるのですね。ならば、この屋根を破ってもいただきたい。そんな信仰だったのだと思うのです。階下の土埃立つ混乱の中で、その信仰を最も喜んだのは主イエスキリストご自身でした。最も必要な出来事を中風の人に与えるのです。「子よ、あなたの罪は赦される」。罪のせいでこの人が中風になったことの証明ではないと思います。人間、それにある根源的な罪を示してのことでしょう。彼らの信仰に感動し、応答し、主イエスキリストしかできぬことを真っ先に与えるのです。



2014年9月14日

「天を仰いで」

犬塚 契牧師

 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」…主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 創世記 15章

 前章の14章。アブラハムは、立派にもソドムの王からのオファーを断って、戦利品を自分ものとしませんでした。彼は、神様からの祝福にこだわったのです。しかし、アブラハムの召命の12章から続く神の約束は一向に前進していないようにも思えて仕方ありません。彼は空手形を掴まされた気になったのだと思います。アブラハムが創世記に登場して、初めて彼は神に言葉を発します。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか」。一度口を開くと今までのうっ積が彼の言葉として溢れてきました。止まらくなりました。一つ、興味深いことがあります。アブラハムと神との関わりについてです。15章までは、ずっと「アブラムに言われた」と表現されていたことが「アブラムに臨んだ」と変わっていることです。「臨んだ」とは、よりアブラハムと神との関係が深まっていったことを示しています。その中でのアブラハムの問いかけなのです。信じなければ問いかけなど生まれてきません。信じようとするからこそ、恐れがあり、うろたえもあるのでしょう。アブラハムは、今その場所を生きています。スイスの神学者カール・バルトは「覚悟を決めた恐怖心、それこそが勇気」と語ったそうですが、通じるものを感じます。アブラハムの問いかけに神様は満点の星空を数えるように伝えました。現代では見ることのできないくらいの星があったのでしょう。恐らくアブラハムの反応は「とても数えることはできない!」でなかったかと思います。そこで、神のスケールの大きさを彼は知りました。そして、それを信じようとしました。信じるという言葉が聖書に初めて登場するのも、この15章です。神の祝福の内にあることにアーメンと答える者でありたいのです。



2014年9月21日

「罪人を招くために」

犬塚 契牧師

 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。        マルコによる福音書2章13-17

 取税人とは、税務署で働く職員さんのことでなく、同胞を裏切って、ローマ帝国の代わりに、税金を徴収する人のことでした。彼らがその仕事ゆえに罪人と数えられたわけは、一定のノルマをローマに納めれば、あとは好きな分だけ税金を上乗せすることができたからでした。レビにはそれ以外には生きていけなかった事情があったのでしょうか。それとも人並以上の生活を望んでのことでしょうか。聖書のここだけに登場するレビは伝統的にマタイのことと言われます。イエスキリストが収税所に通りかかって、レビを見かけた時に彼は、座っていた」と書かれています。レビは、座ったままでした。収税人と言われるとルカ書のザアカイの話を思い出します。イエス一行が来るのを聞いて、木によじ登って一目見たいと思った熱意や渇きが書かれてます。結局、ザアカイはイエスキリストを家に招く特権にあずかりました。ザアカイは、エネルギーがある人であったと思います。一方、レビです。彼はイエス一行が来ても、立ち上がることもせず、座ったままでした。そのレビにイエスキリストは「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。▲生きる力がでなくなることがあります。まったく余力がなく、かつて、かわせた事柄にこだわって、余計に話が難しくなることもあります。人はそんな難しい時があるのだと思います。赦されて見逃してもらう以外にはない時期があるように思えます。芯から冷えた心には、熱い温泉も温めることはできません。気晴らしで気分転換できたり、栄養ドリンクで元気になるうちは、まだ力があるのでしょう。レビは、イエス一行を前にして立ち上がることをしませんでした。そのレビに「わたしに従いなさい」とイエスキリストは声をかけられました。長い癒しの過程の始まりです。その彼がなにを成したのかは記されていません。弟子になるだけが、彼の使命と読めます。今日も、明日も、明後日も、座る者が、また従おうと静かな生の刷新をいただくのです。



2014年9月28日

「全世界に語り伝えられるもの」

犬塚 修牧師

 「一人女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」 <マタイによる福音書26章7節>

 私達の人生は神の大切な作品である。彫刻家が完成するために、大理石の多くの部分を削り取るように、神は私達の大切な部分を取られる時がある。それは主が最高の傑作を創造するために他ならない。ここに登場するシモンは重い皮膚病にかかっており、なくてはならない体の健康を奪われていた。しかし、それは彼の不幸を意味していなかった。なぜならばこのシモンの家に、主イエス様が訪れ、共に食事をされたからである。当時、食事をする事は、非常に深く親密な交わりを意味していた。ゆえに、自分にとって厳しい出来事があっても、その所に主は深い慰めと愛をもって来られ、さらに広やかな第二段階へと導いて下さるのである。そして予想をはるかに超えた豊かな愛のみ業が展開されていくのである。また、たとえ健康が損なわれても、魂の最深部にある霊は祝福ののままであり、また神の愛のみ業は不変なのである。▲主に捧げて生きる……この女性は自分にとって最も大事な香油を惜しむ事なく主に捧げている。この業はイエス様は「まことの王である」という宣言と、「メシア(キリスト)」であるという告白であった。この女性はイザヤ書53章の「苦難のしもべ」のイエス様を洞察していたのであろう。それに対して弟子たちは、「この香油注ぎは無駄だ」と強く非難している。彼らの眼差しは、この世界に向けられていた。確かに、この世の改革は大事な使命であり、努めであるが、その変革にいたる原動力は、主から与えられる賜物であるから、まずはイエス様に対する愛の業が不可欠なのである。自分が持てる宝をイエス様に捧げる信仰はすばらしい。▲将来を洞察して生きる……香油注ぎはイエス様が全人類の救いの為になされる犠牲の死であり、贖いだと見抜いて、その葬りを意味していた。この人の美しい行いは全世界に伝えられるのである。小さな村で起こった小さな愛の業が、地球上のあらゆる人々に知られていくのである。私達の日々の生活の中で、主のために捧げる小さな愛の業もまた、主に覚えられて、ついには天の世界で広く伝えられていくのである。▲感謝に満ちて生きる……私達の一生には限りがある。その短い人生の中で、何が最も大切であるかを思う時、この人の命がけの決断に感動を覚える。私達も自分に残された日々を感謝、愛の業、賛美に生きたいものである。今日を「一日一生」の思いで過ごす事である。主の為に生きる人生に無駄なものはない事を信じて大胆に自分自身を捧げて歩みましょう。





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