巻頭言
2013年9月


2013年9月01日

「いつものとおり」

犬塚 契

 「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」            ダニエル書6章

 自分を妬む人々の悪意ある罠にダニエルは気づいていたに違いない。「王を神とすべし」というダニエルを失脚のための法律が作られた。それでもかれは「いつものとおり」に祈りを支げた。彼は、ライオンのエサとなるはずだったが、神はダニエルの体を守られた。▲昨年、出された天草キリシタンハンドブックを読んだ。踏み絵を踏んだら「天国に行けなくなる」からではなく、キリストを裏切ったら「地獄に行く」からでもなく。殉教者たちは、いのちよりも変えがたい、取り替えることを考えると惜しいものを得ていたから、彼らは殉教したのだと読んだ。口で絵をかく星野富弘さんの詩を思い出した。「いのちが一番大切だと 思っていたころ  生きるのが 苦しかった いのちより 大切なものがあると 知った日  生きているのが 嬉しかった」。▲法を破ることを知りながら、30日でその法律はなくなることも理解しながら、ダニエルはなお「いつものとおり」は、取り替えるに惜しいものとして映った。いのちよりも大切なものであった。私の生きる「いつものとおり」は、果たしてそんなにも貴重で美しく崇高であろうか。・・・根拠が見当たらない。それは自分のうちにはやはり見つけられない。しかし、イエスキリストが価値ありと買い戻してくださったそれにはその血によって証印が押されている。それが私の「いつものとおり」の果て無き慰めである。▲ダニエルはライオンの穴から奇跡的に救われた。3章にも同じようなシーン(熱々の溶鉱炉に入れられた)がある。天草の殉教者には、それは起こらなかった。バプテスマのヨハネもエルサレム教会のヤコブもボンヘッファーもコルベ神父も歴史はダニエルよりも殉教者たちのタイプのほうが多いことを隠しはしない。しかし、イエスキリストも十字架にかかり、墓に入り、石でふさがれた。ダニエル書6章は、私たちの「いつものとおり」を両手で覆い、贖い、救うイエスキリストを指し示している。



2013年9月08日

「寄り添って生きる」

犬塚 契

 「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。」     ルツ記1章

 士師が世を治めていた時代を、聖書は「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記17章6節)と記している。異国からの侵入があり、そのための緊張が強いられ、耕す人もなく、田畑は荒れただろう。それが自然の摂理と重なって飢饉へとつながった。もはやベツレヘムには住むことができないと判断したエリメレクと妻ナオミ、息子の二人マフロン、キルヨン。異国への移住とは一家の相当な覚悟と決意が必要なものだと思う。自分の信じる神に祈っての出発をしたに違いない。しかし、移住先で「夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ」(3節)。息子たちは現地のモアブ人の妻をめとった。オルパとルツだった。しかし、モアブに移住して10年を経て、二人の息子も死んでしまい。エリメレク一家の男子は、子孫を残すこともなくみんな死んでしまった。妻であり母であったナオミにとって、こんな喪失の10年は、あらゆる想像を超える悲しみであったと思う。失意の底、彼女は、故郷が飢饉を抜けたことを聞いて故郷に帰ることにする。嫁たちには、「自分の民、自分の神のもと」へ帰るように伝えた。オルパは泣く泣くナオミのもとを去ったが、ルツはなお寄り添いたいと決意を変えなかった。モアブとイスラエルは歴史を通じて関係がありながらも、総じて中が悪かった。モアブに対する偏見は差別を超えて、いのちの危険があるようなものだった。ナオミはモアブ人の嫁を連れていくわけにはいかなかった。どんないじめにあうか、女だけでどんな働きができるのか、自分が生きている内はともかく自分が亡き後のことを考えると複雑だった・・・。▲なぜルツがそんな決断をしたのかは書いていない。たくさんの推測は可能であり、どれも少しづつ真実を含んでいるのだろう。間違いのないことはただ一つ。ルツは自分が得をする道を選んだわけではないということ。損をする道、難しい道を選んだ。▲時代に翻弄されずに、影響されずに生き得た人が果たしているだろうか。しかし、たとえそんな時代の影に置かれようと神の目はなお閉じてはいない。



2013年9月15日

「なおなお我流」

犬塚 契

 「ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。」 ・・・わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。・・・どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。 創世記 32章

 出生時に双子の兄のかかとを掴んで生まれてきた。彼に名づけられたヤコブとは「かかとを掴む者」の意味がある。後に父イサクから、長子にのみ与えられる祝福を騙して奪い取ってしまう。彼は故郷を追われ、人生の予定が大きく狂った。数年の逃亡を予想していただろうか、結局20年にも及んだ。逃亡先のハランで、二人の妻を得るが、姉レアを愛せない葛藤が残った。それは、妹ラケルとの関係にも影響を与えた。やがてヤコブは、おじラバンのもとを夜逃げするように去るが、それはラバンの気づくところとなった。あわてて追ってきたラバンに対して、ヤコブは自分の正しさを主張する。二人はそれぞれの神を見張りにして、お互い干渉しないと誓いを立てた。そして、ヤコブの旅は続いた。▲正しいはずのヤコブ、勝算はヤコブにあり、正義も彼の味方だったはず。しかし、「神の陣営」の中にいることを知らされたヤコブは、力づけられるどころか、恐れた。比較に生きる内は安心だった。ラバンよりは・・・。間違いなく自分に義があった。しかし、突然の沈黙のマハナイムの出来事は、彼の足元を照らした。御使いは語りかけない。言葉を発しない、二組に備えられた陣営の磐石さを示すのみである。そして、ヤコブはその陣営にふさわしいのか、スパイなのか・・・。「正しい」はずのヤコブの位置が、静けさの中で問われる。彼はなおなお我流で自分で細工をする。神の陣営を信用せず、むしろマハナイム(二つの陣営)からアイデアもらったかのように、持ち物を二つに分けて、生き残りを模索する。彼は、果たして神の陣営にふさわしいのだろうか。そして、ヤコブの姿に自分をみる。▲ヤコブは、マハナイムで問われて神に「助けて」と心底、祈った。ここまで20年。



2013年9月22日

「だから恐れるな」

犬塚 修

 「あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えられている。だから恐れるな」 マタイ10章30〜31節                    

 「恐れ」と呼ばれる否定的な感情は、私たちの心に絶望感や底知れない不安を引き起こす。この思いに捉えられると、平安は失われ、悩みと心配が尽きなくなる。それ程に「恐れ」は害毒をはらんでいる。ここにこの悪しき思いに打ち勝つ秘訣をイエス様は語られた。@真実は必ず明らかにされるという確信を持つ事―――「覆われているもので現されないものはない」(25節) 隠された悪を神は決して見逃されず、必ず明白にし、厳しく裁かれる。私たちは不義や欺きに屈してはならない。神は正義を成就される。神は義の神、審き主である。また同時に、きたるべき日に、隠された善も明るみに出される救いの瞬間が訪れる。ゆえに主を信じる者は忍耐強く神の正義と愛を待ち望む事が肝要である。A試練に時には、神に向かう事である。―――「私が暗闇で言うことを明るみで言いなさい」(27 節) 試練と思われる暗闇の時も、主は従う者を決して見捨てる事なく、耳元で静かに語られる。その細いみ声を聞き取り、祈りの祭壇を日々、建て直していきたいものである。B人間の力は限界がある事を知る―――凶悪な人間が弱い者の命を奪う事はできても、その魂までも殺す事はできない。その両方とも滅す事ができるのは全能の神のみである。無力な者に過ぎない人間を恐れ、悪に自分の魂を売り渡してはならない。悪に対して信仰と勇気をもって戦う事である。C私たちの神は慈愛に満ちた天の父であり、絶対的な守りを持って支えられる事を信じる―――二羽の雀は安価な値でで売られているが、その一羽さえも神に忘れられてはいない。それは豊かな愛に満ちた約束の言葉である。ましてや、信じる者への愛は想像をはるかに超えている。ゆえに、私たちは何も恐れる事はなく、絶大な神の平安と感謝に満たされたい。ポルトガル人で作者不詳と言われた「手紙〜親愛なる子供たちへ」の詩は神への絶対的な信頼に裏付けられた美しい詩である。



2013年9月29日

「かまわれる神」

犬塚 契

 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。」 マルコによる福音書 1:16−17                    

 ルカはイエスキリストが12弟子を選ぶ時、一晩中祈られたことを記している。夜中まで祈って決めた人選である。ならば場面を異にしても、この四人の弟子の選出にして、ある日の思いつきの声かけでなく祈りと丁寧な言葉選びがあり、漁師に語るに一番ふさわしい声かけを意識されたのだと思う。ガリラヤのナザレという人口300人程度の小さな村では、18才くらいの結婚が一般的であった時代にイエスキリストは独身を30年間貫いた。聖書はその時期のことをほとんど語らない。恐らくは、兄弟が育つまで、母マリアやその家族を長男の責任において、養うために働いていたことと思う。語るほどのことはない日常とそれほどまでに低きを伴なわれる神の姿を沈黙から読む。神我らと共にいます(インマヌエル)とは、文字通り特筆なき30年においても、なお然りなのだ。そのイエスキリストが弟子たちの日常の場面から選出をされた。シナゴーグでの礼拝の姿を見て、その熱心さを買われたのではなく、勉強熱心なセンスのよさでもなく、漁師が網を打つ日常の場面に沿われる形での選びだった。普通は弟子が師を選び、志願してついて行くものだと思う。イエスキリストの弟子は、ご自身が選ばれた。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…」(ヨハネ15:22)。礼拝を喜ぶものとされた私たちにしても、どういう導きで場に集っているのであろう。どの道を辿って、礼拝を捧げる者とされたのであろう。背後にイエスキリストの語りかけを聞いていきたい。わたしたちの日常そのものがキリストの伴なわれる場であり、神の語られる舞台なのだと信じてよいと思う。ならば、今あるまま、生きるままを祈りの課題とし、差し出し続けることを繰り返したい。





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