巻頭言
2012年9月


2012年09月02日

「神を仰ぐ」

犬塚 契

 神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。 コヘレトの言葉 7章13節

 コヘレトの7章。「死ぬ日は生まれる日にまさる」とか「悩みは笑いにまさる。」とか。一見どうかと思うような、意外な言葉が並んでいる。むしろ前後の言葉を入れ替えたほうが分かりいいようにも感じる。しかし、繰り返しコヘレトの7章を読む時に、その後ろを流れる大きなテーマがあって、それは神の時の受容なのだと思う。神様が事をなされる時があり、神様が定められた流れがある。上記の14節も意外な言葉だろうか。私たちは日常においても「避けては通れない道」なんていう言葉を時々聞く。なんだか定められた不幸のように聞こえてあまり好きな言葉ではない。恐ろしく響く。ならば、この13節の「神の曲げたものを、誰が直しえようか」とは更に深刻さを増すものではないかとも思う。そう言われてしまえば、もう、お手上げではないか・・・。▲もうひとつのことを思う。多くの曲がったように思える出来事の前で、神ご自身がその必要を判断され、曲げられることがあるとは、時に人を救い、解放しないだろうかと。14節には、「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ」とある。順境の時は、楽しみ喜べばいいのだ。子どもがプールではしゃぐのを見ながら、事故をイメージして、頭を悩ませる必要はない。共に遊ぶだけ。逆境の時は、すべてが敵に見え、事は現実よりも悪く思え、そう考える人の癖がある。自分の手のせいにし、自分だけは責めきれないから人のせいにもする。しかし、逆境の時にはその場にあって、神の流れの中に身を置かせてもらいながら、考えるべきなのだと思う。「神の御業を見よ」という言葉を前におきながら。もし「人の御業」ならば、逃げ道なく隠れる他はない。コヘレトの7章からいただく慰めは、曲げられたところから始まる神の御業である。



2012年09月09日

「幸せの中を」

犬塚 契

 気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。・・・罪を犯し百度も悪事をはたらいている者がなお、長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり・・・。」           コヘレトの言葉 8章

 上記箇所。日本には王がいないから実感として湧かない面もあるが、当時の王制の中で庶民たちには不本意にも従わなければならない場面も多くあったのだろう。私たちも、思えば使い道を指定できぬまま税金を納め続け、納得いかぬまま従い続けている場面がある。目に見えぬ神にもまたすべてに対して納得いく解決が得られなくとも従い続ける信仰が必要なのだと王を引き合いに出して、コヘレトは伝える。それでも盲目的に従うのではない。地図持たぬまま旅に出ているわけでもない。神を信じるものには、神の時を思う信仰がある。世界の始まりがあり、終りがあり、神の時があり、神の流れがあり、神のさばきがある。私たちは自分の限界を知らされながら、時を支配される神を知らされ、怖れをいただき、その歴史の一端を信仰の告白をもって埋める。誰にも見られることも気付かれることのない山奥の花も、決して取られることのない木の実も、ただ神の造られた秩序にその存在をもって神の栄光を表すという、いわば召しに徹して生きているように思う。比べると人自らの顕示とはなんとギラギラしてしまうものか。あわせて、コヘレトは世の不条理を隠さず描く。なぜ反省なく百度も悪事を働くものが長生きし、正しき人が寂しく死を迎え忘れ去れらるのか。救いは、「にもかかわらず」によるささやかなる逆転である。それでも神を畏れる人は、畏れるからこそしあわせがある。神の交わりと神が置かれた身近な人たちとの関係の中に神がおいてくださったしあわせとはなんと感謝ことだろう。世の不条理のすべてを払拭することはできない。納得いかないことも少なくない。「にもかかわらず」神のくださる幸せは、尽きることもないのだ。ならばそれを数える者でありたい。



2012年09月16日

「希望を生きる」

犬塚 契

 死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく。           コヘレトの言葉 10章1節

 イエスキリストが十字架に架かる週に、前もって香油で埋葬の準備をした女性に弟子達は、なんてもったいないことをと呆れた。2000年前の香油はとても高価だった。今日のコヘレトの言葉は更に1000年遡っている。香油作りの過程でハエが入り、そのままほっておいたならば、わずかに見えるハエの死臭は香油を台無しにするようなものだった。著名人、スポーツ選手、政治家などが、一つの愚かな行為によって名誉も財産も奪われるようなシーンを時々目にする。今までの功績が素晴らしいからといって免除にならない。3000年前の知恵、「僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく」とは、本当なのだと思う。▲矢内原忠雄さんは「望遠鏡を用いないで天文学の研究をするものが愚かであるように、自分自身の罪を通さずに神をみようとするもは愚かである」と書いている。なるほどぉと思いながら、不思議にも感じる。もともと、罪は神を遠ざけるものではないのかと。きっとそうだと思う。それでも、罪を通してでなければ神を見ることができない。フィリップヤンシーの本に出来てきたアルコール依存のクリスチャンの言葉が浮かんだ。どの本かは失念、こんな内容だった。「不思議なものだね。どういうわけか神様は自分が一番嫌いな部分、つまりアルコール依存症ということを通して、ご自分もとに引き寄せてくれた。」▲パウロはTコリント9章で、信仰の歩みの「自分の体を打ちたたいて服従させます」部分を強調している。神の側の圧倒的主導権がありながら、同時に人の側の業もまた恵みとして与えられている。両面をいただきながら、なお神を慕い求める者へと練り清めてくださることは希望ではないだろうか。神はなお取り扱い難い者の取り扱いをやめない。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」ヤコブの手紙1章5節



2012年09月23日

「心を入れ替えて生きる」

犬塚 修

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」マタイ18:1〜5

 今朝は敬老の日を覚えての礼拝である。アブラハムやモーセは75歳、80歳という高齢であったにもかかわらず、青年のような気力と体力を神から与えられていた。神の国はこのような信仰の人々によって建て上げられてきた歴史がある。老人や子供に共通するものは、神に対する徹底的な従順さである。それは、自らの限界を熟知した自然な謙虚さに由来していると思う。@天の国に入るには―弟子達が主に「天の国ではだれが一番偉いか」と尋ねた質問には彼らの思いがにじみ出ている気がする。それは比較の原理である。自分と他者を比べて競争し、優劣を競うならば、必ず優越感か劣等感が生じる。人は皆、神にユニ-クに創造された貴い存在であり、比較されるべきではない。また同時に、弟子達の目線の高さも感じられる。ここには、自分達はすでに救われているという強いプライドがある。「子供のようになれ」という主の命令は、彼らに真の謙遜さを教えるものであった。パウロは、自分の弱さ、貧しさを良く知っていて「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Uコリント2:9)という主の言葉を記している。パウロは天の父の従順な子供として、自分の弱さを誇り、それによって、神の栄光を輝かす人となった。A「心を入れ替える」―原語では「心を入れ替える」は「後ろを振り返る」という意味を持つ。マグダラのマリヤは、主が葬られた墓に行って泣いていた。そこに、復活された主が現れ「マリヤ」と呼びかけられたので、彼女は振り返った。(ヨハネ20章) それまでのマリヤはただ墓だけを見つめ、絶望、悲哀、挫折感で心が覆われていた。主はその悲しみに満ちた目を転じさせ、主ご自身を見つめるように命じられた。ここに救いがある。私達は厳しい状況だけに目を注ぎがちだが、主に向かって振り返る事が肝要である。その時、神の大能、圧倒的な力と豊かな救いの出来事を再発見するようになるであろう。



2012年09月30日

「創造主に心を留めよ」

犬塚 契

 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。…白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。         コヘレトの言葉12章1、6-7節

 コヘレトの言葉をしばらく読んできた。3000年も前に「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。」と言われた世界がなお続いているだろうか。それでも12章まで読んで教えられるのは、私たちの歩むところが矛盾や理不尽さの中にあったとしても神が神でなくなるわけでも、その働きを止められたわけでもなく、なお幸せをその只中においてくださっているということだった。昔、ナチスドイツに捕らえられた牧師や神父、修道士たちが家族や友人に宛てた手紙を読んだ。その中には、たくさんの素朴さや思いやりやさしさや愛が含まれていた。想像を絶する悲惨さと直面している困難さ、将来への恐れにありながら、不思議にも人はなお神が与えられる幸いを受けることのできる存在である。コヘレトを読んでそうデザインされた神がおられることを改めて教えられた。振り返って、なんと一つのままならぬ出来事を自分の歩みのすべてにふりかけて、喜びをも台無しにしてきたことか。「只中でなお喜ぶ」とは信仰者の特権なのだろう。▲最後の12章。次第に老いて弱っていく人の有り様が詩的に表現されている。手が弱り、膝が衰え、眠り浅く…。そして、「白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける」。じっと読んでいくと厳粛な思いをいただく。いのちとは乱暴にぶんどって得られたものでも、ふって沸いたものでもない。神が「…その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章)。だから、厳粛さの中で「死を心に留めよ」でなく、「創造主に」とコヘレトは励ます。やがて、神が吐かれた命の息は、その所有者のもとに戻る。神と共に歩む人にとって、それは望み得る最大の慰めではないだろうか。





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