巻頭言
2011年9月


2011年9月04日

「伝えられたよき知らせ」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 ルカによる福音書 15章20節

 聴衆は徴税人と罪人だったと15章1節に書かれている。イエスキリストの周りに集った傷ついた人々の情景が浮かぶ。言い訳のできない、隠し切れない罪人たちだった。彼らに向けてたとえが3つ語られる。そのどれもが「失ったものを取り戻す時の神の喜び」がテーマだった。最後のたとえはあまりに有名で「放蕩息子のたとえ」と新共同訳聖書では題がついている。最短にして最高の傑作といわれる。読むと、主人公は放蕩息子ではないことに気付く。これは父の物語、神の物語だと。▲十戒がモーセを通して与えられた神と人との約束ならば、その第6戒「殺してはならない」とは「神殺しをしてはならない」ではないかという説教を聞いたことがある。たびたびその言葉を思い出し、「神殺し」を思う。自分にとって都合良き事以外には神の支配を認めず、不平と恐れといらだちの中にある自分に気付く時には特にそう思う。ここもまた神の支配の内にあると信仰持つものでありたい。▲このたとえに登場する二人の兄弟は、どちらも父を殺したのでないかと思う。父の生前に財産を求めた弟は、父の影響・支配を払拭したいかのように放蕩した。兄は、自分が文句も言わず父に従っているから愛されているのだと理解していた。父のものすべてを所有していながら、喜びはなかった。兄弟どちらも真の父の思いを知らなかった。父は自分の子育てを反省しただろうか、もっと力を用いて矯正したり、怒る場面があった方がよいと思ったかも知れない。それでも「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。▲父は何も知らないお人よしではない。父の痛みは残ったと思う。息子たちの負の清算もある。長い時間、待ちに待った父の痛みに、十字架を思い起こす。イエスキリストの十字架に現されていることは、愛と義の交差だ。両手、丸抱えの愛こそが、イエスキリストの伝えた最もよき知らせ。



2011年9月11日

「祈る者へ」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。…また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 ルカによる福音書 11章9-13節

 「わたしたちにも祈り教えてください」と弟子の一人に言われたイエスキリストが最初に教えられたのは、主の祈りだった。礼拝においても、祈り会においても、「主の祈り」を私たちは祈る。「天にまします、われらの父よ。願わくば御名をあがめさせたまえ」。世界中にたくさんの祈りがあっても、まず神に栄光を帰す祈りは「主の祈り」だけだろう。世に溢れるたいていは自分の必要から始まって、自分の必要で終わる。ともすると自分の祈りもそうなることがある。だから「主の祈り」の適切な祈りの順は感謝だと思う。その後に上記の聖書の言葉が続く。ある人が主の祈りを「日常の祈り」、5節以降の激しい求めの祈りを「戦場の祈り」と記していた。どうしても私たちの歩みにも二つの祈りが必要なのだ。主の祈りのベースがあって、緊急事態の歩みにおける戦場の祈りもまた必要なのだ。疲れきった友人が訪ねて来ても、もてなすものが何もない無力な人のたとえをイエスキリストは語られた。友人のための彼の求めは、恥も外聞もなく面子も捨てた切実な訴えだった。信仰者たちに求められることも同様である。「求めなさい。そうすれば、与えられる」。しかし、それは熱心に求めたから、祈り手が求めたものがそのまま与えられるという約束ではなく。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と書かれている。求めるは、「聖霊」の働きなのだと教えられる。聖霊によって苦難の中を生きる励ましを受け、聖霊によって聖書の真理が教えられ、聖霊によって天の父のお心を私たちは知るのである。そして、与えられるものはきっとそれで十分なのだ。



2011年9月18日

「主よ、みもとへ」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。…金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 ルカによる福音書 16章14-30節

 今朝の聖書箇所の前には、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とイエスキリストが語られる場面が出ている。しかし、それをあざ笑う金持ちのファリサイ派の人々がいた。「あらあら、あらあら、大先生!そんなこと言ったって、金がなくてどーすんのよ!金があるのは、神の守り証拠でしょうに!そんなことも知らないでどーすんのよ。」“あざ笑った”とは、そんな感じだったろうか。そんな人たちに向けて語られたのが、「金持ちとラザロ」のたとえ話だった。たとえ話であって、実際に死の後の世界のリアルな描写でないように思う。金持ちがラザロを苛めたとか、飢え死にさせたとかは書いてない、むしろ家の前に病人のラザロがいることを許しているようだし、陰府での苦しみは生前に施しをしなかった罰だとも読めない。ではなぜ二人の立場が死の後に逆転したのだろうかと思う。金持ちの一言にそのヒントをみる。「悔い改め」である。彼ができなかった、その豊かさ故に成せなかったのは悔い改めだった。「命の動機」「生きる力」を金に置いた人の姿をイエスキリストはたとえとして話された。それは「あざ笑った」人達にどう迫っただろう。時々、私自身もその「命の動機」「生きる力」を問われる。だから、いろいろなものを押しのけて、み言葉の前に立たされ、悔い改めへと導かれるのだ。それは感謝なことだし、信仰者の醍醐味でもある。エゼキエル書にこう書いてあった。 「誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布にくるんでくれる者もいなかった。だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、憐れみをかける者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。」 エゼキエル書16:4-6



2011年9月25日

「失望に立つか、信仰にか」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」 ルカによる福音書 17章20-37節

 イエスキリストをあざ笑い、敵視していたファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と問うた。明確な線引きによって国の境が定めることのできない時代、その国の王の支配が及ぶところまでがその王のものであり国だった。だから、「神の国」とは「神の支配」と言い換えることができる。彼らはまだそれを実際に見ていない、それはいったい何時なのかと考えイエスキリストに問うた。日時を指定したら、その日を「イエス、蜂起の日」として訴える口実にできるとも考えただろうか。イエスキリストは、答えた。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」▲少し長い研修の最終日、ある牧師家庭の子息が早朝起き上がらず病院に運ばれたことを聞いたのでお手伝いしたいと思った。できたのは、買い物への付き合いと運転とお祈り。教会に帰ってきて青年修養会を喜び、礼拝の準備をした。岩手に行く準備の中、子どもが足を骨折し、長いこと飼っていたペットの猫が治療は望めないと病院に引き取りに行った。心配は絶えなかったが妻に任せてボランティアに行った。根こそぎ津波に流された場所には半年を経て草が生えていた。仮設住宅で支援物資を配り、お話を聞いた。みんなで童謡を歌うだけで涙する人達の心は、どれほど渇き痛んでおられるのか、それは想像を超えた。想像は超えたが、パイプ椅子に座りながら、日常ではなかなか作りたくても作り得ない空間の中に自分が置かれている感謝は覚えた。可哀想な被災者を助けるなどという思い込みは、あっという間に消えた。▲舞台裏のすべては私たちは知り得ない。いっさいが明らかにされるのは、イエスキリストが再び来られる時である。覚えるべきは、今この時が、神の「非」支配の中にあるとの失望でなく、「あなたがたの間にある」という主イエスの言葉であることを思う。


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