巻頭言
2010年9月


2010年9月5日

「どこにも吹く風・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 使徒言行録4章

ふじみ教会は献堂15周年記念礼拝を迎えた。教会の祝福は聖霊の風が吹くことによる。聖霊の働きが、教会の歴史を造り上げる。モ−セ時代のイスラエル人が、40年間の長い間、厳しい荒野を旅することができた理由の一つに地中海から吹いてくる涼しい風があったからである。それによって彼らは、疲れ切った体を回復したのである、同じように、教会も聖霊の風によって導かれていく。今、私達はペンテコステの出来事のように、天から吹いてくる聖霊の風を強く受けたいと祈りたい。 ▲原始教会はペトロとヨハネなどの使徒たちによる大胆なキリスト告白によって強められていった。彼らは主の復活を宣教したゆえに、投獄されたが、少しも臆せず、堂々と宣教し続けた。▲彼らは自分の命の問題、また将来起こる出来事を一切主に委ねていた。何物も恐れていなかった。復活以前の彼らの弱々しい姿と比較すると、あまりも違いに驚嘆する。その理由は、彼らが人生の完成は、自分の力やガンバリ、実践などによらず、ただ、キリストのみ手によると悟ったからだと信じる。「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』」(11節)とある。「隅の親石」とは建物建築の最後の際に、楔のように打ち付ける非常に大切な石である。万一これがはめ込まれないと、建物は崩壊する。私たちの人生の最終の完成部分には復活のキリスト以外に据えられてはならない。もし、この主以外のもの(たとえば人の評価、賞賛、自分の計画、願い、野心など)が据えられたならば、人生は不安定なものとなる。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリストイエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1:6) 完成はただ主にかかっている。復活の主が私たちの人生の家の親石となるならば、人生は豊かな平安と勝利に満たされていこであろう。



2010年9月19日

「そのままの姿で・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。                  使徒言行録 9章

『人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。』(7章)ステファノのリンチによる壮絶な死、その最後の言葉がパウロの耳に残っていただろうか。そして、それをかき消すかのようにパウロは今まで以上にクリスチャンたちを迫害していった。いよいよ逃げるクリスチャンたちを追って、更にダマスコへと向うパウロを光が照らした。▲子どもが悪さをしたお仕置きは、押入れに入れる・外(暗闇)に出す…そんな相場が決まっている。大抵、闇で包むのだ。しかし、神様の方法は、天からの光で彼の周りを照らすことだった。そして、2度名を呼んだ。新約聖書の中で名が2度呼ばれたのは、マルタとペトロとパウロの3人だけである。迫害するのかという言葉もまた心配させるのかとも読める。常軌を逸したパウロの姿。怒りに我を忘れたパウロの姿。そのパウロに対する呼びかけがある。パウロは意気込んでダマスコへと向ったが、今、そのパウロは手を引かれて連れられるだけ存在となった。しかし、その姿こそがパウロの真の姿であり、原寸大のパウロではなかったか。▲迷ったように怒りにおぼれる日があり、熱心さの影に残る痛みを思う日もある。なおも2度呼びかけられる主によって、また生きる。



2010年9月26日

「自由に生き、自由に遣える・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。        使徒言行録 10章

キリスト教がユダヤ教の小さな一派から、フィールドを世界へ広げ、福音が伝えられる記念の一ページ。歴史が大きく動き、広がった聖書の箇所、それが10章。異邦人でローマの隊長コルネリウスとユダヤ人でイエスの弟子のペトロ。異邦人とユダヤ人とは本来交わりがなかったので、二人が出会うには、多くの障害や偏見があった。▲ローマ人コルネリウスに出会う前、ペトロはヤッファの皮なめし職人シモンの家に滞在したと書かれている。このシモンの職業はユダヤのおきてによれば死体に触れるような汚れた仕事であって、人々から避けられる立場だった。しかし、ペトロはシモンの家に滞在した。当時のクリスチャンたちが社会的に排除されているような人たちにも積極的に関わりを持っていたのだと分かる。「友なきものの、友となりて〜♪(205番)」のメロディが浮かぶ。しかし、なおペトロには出会うべき出会いがあった。異邦人との出会いである。その出会いの前に、ペトロは夢をみた。それが冒頭の聖書箇所。後にペトロはコルネリウスと出会うことによって、偏見が取り除かれ、この出会いをきっかけに福音は全世界へと広がっていく。▲神様は突然に人に変われ!化けろ!とはなさらないように思う。そんなことを要求するのは大抵、人間だ。神様は、どこかに準備の備えをしてくださり、私たちの実生活一こま一こまの中で導いてくださるのではないだろか。そのことによって、私たちはひとつ自由になり、解放を与えられる。そして、それは自由に賛美し、自由に祈り、自由に神に栄光を帰すことへとつながっているのだと思う。


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