巻頭言 2009年9月 |
「勇者よ」
牧師 犬塚 修
その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶね の中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ 、主はあなたと共におられます。」 士師記6:11〜12 |
ギデオンは祖国の現状を憂い、悲しい思いで生きていました。と同時
に自分の能力、知力、決断力、勇気などの致命的な欠如にも気づいて
おり何もできないままで暮していました。今も、一人寂しく、強敵ミ
ディアン人を恐れ、隠れながら仕事をするしかありませんでした。彼
の空虚、無力、屈辱、苛立ち、絶望を誰が知るでしょう。彼は天涯孤
独であり、自分の弱さを否応無く認めていました。しかし、神は御使
いを遣わし「勇者よ」と呼びかけられたのでびっくり仰天したのです
。誰も彼をそのように呼んでくれる人はいませんでした。彼は世から
見捨てられた世捨て人に過ぎません。誰も彼に期待せず、無視しまし
た。しかし、神はこのような人を用いられます。人間はその正反対で
す。多くの者は魅力的な人、能力の高さ、優秀さ、卓越した潜在力を
高く買い、その人に希望を託します。よく「〜の天才」「〜の大器」
という言葉が華々しく羅列されます。誰もがその俊秀な人に期待した
いのです。しかし、神は無能ゆえに苦悩し、痛み、傷つき、倒れ伏し
砕かれた弱い者も豊かに用いられます。神は愛であり誰も差別されま
せん。わずかな人々だけが幸せを独占し、後はどうでもよいという差
別化を嫌われます。神は私達の慈愛の父であり、弱さにまみれた者を
も勇者として訓練し、役に立つものとされます。それは主に従う者に
起こる奇跡であり、驚嘆する愛の出来事です。私達はこの福音の視点
に立って自分や他者を全く新しく見つめ直す事です。この世の価値観
に侵されてはなりません。律法主義から福音へ移行するべきです。
35:4)
「憐れみの必要な者」
牧師 犬塚 契
驕る者は低くされ 心の低い人は誉れを受けるようになる。…人は恐 怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。支配者の御機 嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。 箴言29:22〜26 |
心地よく吹く秋の風と安く買った梨が美味しかったせいか、前日まで
久しく好調に思われた心は、挨拶した人に一瞥の後、思い切り無視さ
れたという仕打ちによって小さく縮んでしまった。2時間くらいは復讐
策を考え、半日は怒りを溜めたが、そんなことにこだわる自分の職業
を思ってさらに小さくなった。▲「強い人・弱い人」というトルニエ
の著作の冒頭にこんな詩が引用されていた。「もしわたしの隣人が、
わたしより強いならば、わたしはその人を怖れる。もしその人が、わ
たしより弱ければ、わたしはその人を軽蔑する。もしわたしとその人
とが同じであれば、わたしは詭計に訴える。わたしがどのような動機
をもっていたら、その人に服従することができ、わたしにどのような
理由があったら、その人を愛することができるだろうか。」 ジャン
・ド・ルージュモン▲ポール・トルニエは「偽善者の定義は何か」と
聞かれて、「それは私です」と答えたという。私たちの主は、もっと
も蔑まれた十字架への歩みを続けられた。救い主の歩みが、世がうら
やむような成功者のそれではなく、十字架へ向かう道だったことこそ
が良い知らせであるという逆説を神様は選ばれた。ときどき本当にそ
れが福音となる。主の足跡をたどたどしく辿らせていただいているよ
うな幸い。
宝の民として
牧師 犬塚 修
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の 面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた 。 申命記7:6 |
祝福された人生となる重要な条件の一つは自信の回復と信じます。多
くの場合、私たちは自信が決定的に不足していて、他人の言葉に傷つ
けられたりおびえたりします。発言した本人が単なる冗談で言ったか
もしれない軽口にも、重大な非難としてとらえて反応し、何日間も、
胃がきりきりと痛くなる時さえあります。しかし、もし私たちに「主
は私を宝の民とされた」というゆるぎない自信があったならばどうで
しょうか。実は、私たちはすでに、いかに責められても傷つかない金
剛石(ダイヤモンド)とされているのです。それは決定的事実です。
私たちが有能な人間だったから、主がそうされたのではなくて「主が
心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民より
も数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱で
あった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に
誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたち
を導き出」(同7〜8節)されたからに他なりません。主ではなくて、人
に受け入れてもらいたいという切なる気持から、無理に自分を抑圧し
たり、律法主義や理想主義で、不自然に自分を締めつける必要はあり
ません。そのままの自分を受け入れ、喜び、感謝する事です。冷たい
言葉や誤解を軽く聞き流しましょう。強風にそよぐ柳の枝のようにな
りたいものです。恵みとして贈られた自信を固く保ちましょう。
「誰を見て、何を見て」
牧師 犬塚 契
また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も 、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださ ったのを見た。 申命記 1:31 |
出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と読み進めてきた。約束の地
を前にしてのモーセの説教が響く。説教を一番初めに聞く者は説教者
自身だと思う。神の言葉の前に、まず説教者が何者であるかを問われ
、主が誰であるのかを思い出させていただき、悔い改めが起きて、神
の言葉が心に届く。ならばモーセもそうであったのだと。「あなたた
ちが」「あなたを」と民に語りかける言葉の前に、モーセは自分自身
が、荒れ野でも、旅の間中も、父が子を背負うように背負われてきた
ことを思い出していた。脳裏にはBGMはなかったとしてもそれぞれの
場面場面が浮かんできたのだと思う。人に語っているようで、実にそ
れは自分自身に与えられた神の言葉だった。▲「あなたは、もう少し
でワニのえさだったのよ!」と食卓にワニが並ぶ度に、出生の出来事
は繰り返されて話題になったろうか。「あなたは特別な使命があるの
よ」と付け加えられたとも思う。世界の最高学府で学び、これからと
いう時期に、人を殺めた。同胞を守ったというか、カッとなると抑え
が効かなかったというか。彼にはもう少し時間が必要だった。逃亡者
の生活が始まり、ミディアンの地で40年を送った。生まれた子供には
ゲルショム(寄留者)と名づけた。自分は根無し草で中途半端な人間
だと思った。…▲長い長い神の取り扱い。彼の歩みは彼の望んだそれ
ではなかったかもしれない。結局彼は約束の地を前にして使命を終え
た。それでも主は私を背負われたと言ってはばからない。必要だった
時間は、神と信頼を深める時間だったではないだろうか。起きてくる
一切の物事はそのためにあるのかもしれない。ご自分の子を取り戻そ
うとする神の豊かな豊かな働き。▲わたしは誰を見て、何を見て生き
ているのだろう。