巻頭言
2009年9月


2009年9月6日

「勇者よ」

牧師 犬塚 修

その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶね の中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ 、主はあなたと共におられます。」     士師記6:11〜12

ギデオンは祖国の現状を憂い、悲しい思いで生きていました。と同時 に自分の能力、知力、決断力、勇気などの致命的な欠如にも気づいて おり何もできないままで暮していました。今も、一人寂しく、強敵ミ ディアン人を恐れ、隠れながら仕事をするしかありませんでした。彼 の空虚、無力、屈辱、苛立ち、絶望を誰が知るでしょう。彼は天涯孤 独であり、自分の弱さを否応無く認めていました。しかし、神は御使 いを遣わし「勇者よ」と呼びかけられたのでびっくり仰天したのです 。誰も彼をそのように呼んでくれる人はいませんでした。彼は世から 見捨てられた世捨て人に過ぎません。誰も彼に期待せず、無視しまし た。しかし、神はこのような人を用いられます。人間はその正反対で す。多くの者は魅力的な人、能力の高さ、優秀さ、卓越した潜在力を 高く買い、その人に希望を託します。よく「〜の天才」「〜の大器」 という言葉が華々しく羅列されます。誰もがその俊秀な人に期待した いのです。しかし、神は無能ゆえに苦悩し、痛み、傷つき、倒れ伏し 砕かれた弱い者も豊かに用いられます。神は愛であり誰も差別されま せん。わずかな人々だけが幸せを独占し、後はどうでもよいという差 別化を嫌われます。神は私達の慈愛の父であり、弱さにまみれた者を も勇者として訓練し、役に立つものとされます。それは主に従う者に 起こる奇跡であり、驚嘆する愛の出来事です。私達はこの福音の視点 に立って自分や他者を全く新しく見つめ直す事です。この世の価値観 に侵されてはなりません。律法主義から福音へ移行するべきです。 35:4)



2009年9月13日

「憐れみの必要な者」

牧師 犬塚 契

驕る者は低くされ 心の低い人は誉れを受けるようになる。…人は恐 怖の罠にかかる。主を信頼する者は高い所に置かれる。支配者の御機 嫌をうかがう者は多い。しかし、人を裁くのは主である。 箴言29:22〜26

心地よく吹く秋の風と安く買った梨が美味しかったせいか、前日まで 久しく好調に思われた心は、挨拶した人に一瞥の後、思い切り無視さ れたという仕打ちによって小さく縮んでしまった。2時間くらいは復讐 策を考え、半日は怒りを溜めたが、そんなことにこだわる自分の職業 を思ってさらに小さくなった。▲「強い人・弱い人」というトルニエ の著作の冒頭にこんな詩が引用されていた。「もしわたしの隣人が、 わたしより強いならば、わたしはその人を怖れる。もしその人が、わ たしより弱ければ、わたしはその人を軽蔑する。もしわたしとその人 とが同じであれば、わたしは詭計に訴える。わたしがどのような動機 をもっていたら、その人に服従することができ、わたしにどのような 理由があったら、その人を愛することができるだろうか。」 ジャン ・ド・ルージュモン▲ポール・トルニエは「偽善者の定義は何か」と 聞かれて、「それは私です」と答えたという。私たちの主は、もっと も蔑まれた十字架への歩みを続けられた。救い主の歩みが、世がうら やむような成功者のそれではなく、十字架へ向かう道だったことこそ が良い知らせであるという逆説を神様は選ばれた。ときどき本当にそ れが福音となる。主の足跡をたどたどしく辿らせていただいているよ うな幸い。



2009年9月20日

宝の民として

牧師 犬塚 修

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の 面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた 。 申命記7:6

祝福された人生となる重要な条件の一つは自信の回復と信じます。多 くの場合、私たちは自信が決定的に不足していて、他人の言葉に傷つ けられたりおびえたりします。発言した本人が単なる冗談で言ったか もしれない軽口にも、重大な非難としてとらえて反応し、何日間も、 胃がきりきりと痛くなる時さえあります。しかし、もし私たちに「主 は私を宝の民とされた」というゆるぎない自信があったならばどうで しょうか。実は、私たちはすでに、いかに責められても傷つかない金 剛石(ダイヤモンド)とされているのです。それは決定的事実です。 私たちが有能な人間だったから、主がそうされたのではなくて「主が 心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民より も数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱で あった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に 誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたち を導き出」(同7〜8節)されたからに他なりません。主ではなくて、人 に受け入れてもらいたいという切なる気持から、無理に自分を抑圧し たり、律法主義や理想主義で、不自然に自分を締めつける必要はあり ません。そのままの自分を受け入れ、喜び、感謝する事です。冷たい 言葉や誤解を軽く聞き流しましょう。強風にそよぐ柳の枝のようにな りたいものです。恵みとして贈られた自信を固く保ちましょう。



2009年9月27日

「誰を見て、何を見て」

牧師 犬塚 契

また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も 、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださ ったのを見た。                申命記 1:31

出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と読み進めてきた。約束の地 を前にしてのモーセの説教が響く。説教を一番初めに聞く者は説教者 自身だと思う。神の言葉の前に、まず説教者が何者であるかを問われ 、主が誰であるのかを思い出させていただき、悔い改めが起きて、神 の言葉が心に届く。ならばモーセもそうであったのだと。「あなたた ちが」「あなたを」と民に語りかける言葉の前に、モーセは自分自身 が、荒れ野でも、旅の間中も、父が子を背負うように背負われてきた ことを思い出していた。脳裏にはBGMはなかったとしてもそれぞれの 場面場面が浮かんできたのだと思う。人に語っているようで、実にそ れは自分自身に与えられた神の言葉だった。▲「あなたは、もう少し でワニのえさだったのよ!」と食卓にワニが並ぶ度に、出生の出来事 は繰り返されて話題になったろうか。「あなたは特別な使命があるの よ」と付け加えられたとも思う。世界の最高学府で学び、これからと いう時期に、人を殺めた。同胞を守ったというか、カッとなると抑え が効かなかったというか。彼にはもう少し時間が必要だった。逃亡者 の生活が始まり、ミディアンの地で40年を送った。生まれた子供には ゲルショム(寄留者)と名づけた。自分は根無し草で中途半端な人間 だと思った。…▲長い長い神の取り扱い。彼の歩みは彼の望んだそれ ではなかったかもしれない。結局彼は約束の地を前にして使命を終え た。それでも主は私を背負われたと言ってはばからない。必要だった 時間は、神と信頼を深める時間だったではないだろうか。起きてくる 一切の物事はそのためにあるのかもしれない。ご自分の子を取り戻そ うとする神の豊かな豊かな働き。▲わたしは誰を見て、何を見て生き ているのだろう。


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