巻頭言
2007年9月


2007年9月2日

「教育と恵み」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらな いように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いで す。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三 度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分で ある。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました 。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに 喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱 、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのた めに満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いから です。 Uコリント12:7〜10

これは驚くべきみ言です。自分の弱さを主の恵みとして誇るのです から。自分に与えられたとげは痛いですので、人間的には喜べませ ん。むしろ、取り除けたいと願うでしょう。パウロにとって「とげ」 は、彼の重い病と言われています。ある人が10数年に及ぶ心の病の 中にあって、「私は心の病になって本当に幸せでした。なぜならば、 私は本当の私自身に戻れたからです。病気になる前の自分はいつも 別の自分を演じていて、誰にも私の本心を打ち明ける事はなかった のです。幼い時からずっと寂しかったが、それを隠して一人ぼっち でしたが、今は違います。家族、教会のみんながあるがままの私を 支え、真剣に祈ってくれます。今、ようやく自分らしく生きられる ようになった。もう十分満足できた気がします。これからは、私は イエス様によって必ず元気になっていきます。」と話されました。 はたから見ると、苦しみに見える現実の中で、このように別の角度 で表現できることの幸いに心打たれました。ハレルヤ。



2007年9月9日

「教育と恵み」月間を迎えて

牧師 犬塚 契

このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょ う、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいた もの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません 。 歴代誌上29:14

自分が神のために神殿を建てたいと願ったダビデは、その夢叶わず 、その特権を息子のソロモンに譲った。ダビデができたことは、そ の材料を集めることだった。一世一代の大仕事として、彼は多くの 金、銀、青銅、鉄、木材を寄進し、民もそれに応じた。そして、上 記の言葉に続く。▲私が通った北海道の小さな小学校では、「将来 の夢」をクラスで書かせると女子の半分は「スチュワーデス」と書 いた…気がする。憧れの職業だった。スチュワードの本来の意味は 、「豚小屋の番人」だそうで、そこから転じて執事、支配人、事務 長、スチュワード(スチュワーデス)を意味するようになった。つ まりは、主人や雇い主から、管理を任された大変貴重な人々である 。その働きの重要さが「あこがれの職業」の所以なのだろうか。▲ 最初に戻ってダビデ。彼はよいスチュワードであったと思う。主人 が誰であるのかを知り、自分はその管理を任された者に過ぎないこ とを認識していた。私たちはよいスチュワード、スチュワーデスだ ろうか。与えられている時間、財、賜物、知恵…を上手に管理して いるだろうか。「憧れの職業」に就職した今、さらにそのエキスパ ートになっていきたいと思う。スチュワードシップは、滅私奉公で なく、報酬を期待できるハナシである。パウロは残り時間を計算し て言った。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています 。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、 決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄 冠を受けるばかりです。



2007年9月16日

アブラハムのように

牧師 犬塚 修

わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名 を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝 福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あな たによって祝福に入る。 創世記12:2〜3

今日は「敬老の日」を感謝して礼拝を守ります。「敬老」と言うと 、私は約4000年前のアブラハムやサラを思い出します。二人はかな りの高齢でしたが、主の命令に従い、約束の地カナンに向かって旅 立ちました。おそらく彼らも人間ですから、出発しようとした時は 、将来に対する不安が黒雲のようにおおったでしょう。しかし、な ぜ、彼らは従う事ができたのでしょうか。それは、上記のみ言に支 えられたからと信じます。主のみ言が彼らを生かしたのです。その み言とは、自分の存在が多くの人たちの祝福の基となるという驚く べき内容でした。年を重ねると、今まで出来た事が、出来なくなっ たり、また心身の衰えを強く感じるかもしれません。しかし、それ らを補って余りあるもの---それが主の祝福です。それは自分の良い 行いで、主や人々の役に立つというよりも、自分の信仰と存在その ものが有益な働きをする全く新しい道なのです。そして、これがど んな業よりも何十倍も大きな働きとなるのです。信仰と存在自体に 無限の価値が与えられたのですから。確かに、主に従い続けていく 高齢の人たちの存在は尊く、かつ重要なのです。主がそう断言され ます。



2007年9月23日

レカブ人の誠実さ「先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子 ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶 えることがない。 エレミヤ書 35章19節

旧約聖書の歴史は、日本人を含む他のどの民族のものでもない。イ スラエルの民の歴史である。神と人の関係を表すよいモデルとして 、選ばれた彼らの歩みは、神の期待とは裏腹に難航した。だから、 預言書には神の裁き、懇願、叫び、痛み、慈しみ、恵みが溢れてい る。そんな頼りないモデルは、バビロンとエジプトの間に挟まれて 、自国を失う危機に瀕した。すでに時間の問題だった。浮足立つ民 の前に示されたのは、財産を持たず、寄留者の歩みを続けるレカブ 人だった。頑ななまでに先祖の教えを守りぬき、決してブレない、 レカブ人が「モデル」の中の「モデル」として示されたのだった。 荒野で生きたバプテスマのヨハネを彷彿させるこのレカブ人は、聖 書に2か所しか登場しない。エフーがバアル神の偶像礼拝を撤廃しよ うとした際に協力した時と、今回だけである。彼らの生き方は、旧 約の主流にはならなかった。それでも、この小さな小さな民族の歩 みは神の前に忘れられてはいなかった。そして、旧約の歴史の中で 燦然と輝きを放っている。その歩みを神はよしとして、祝福された ことを思う。少数であることを恥じず、流行に翻弄されず、異質で あることを恐れず、地上では寄留の民であることを覚えながら歴史 を埋めたレカブ人の歩みに、日々浮き足立つイスラエルのような自 らを思わされた。その中でなお励ます神のことばを聞きたいと思う。



2007年9月30日

「平安をもつ秘訣」

牧師 犬塚 修

主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけこ れを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を 揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて 運ぶように。    申命記32:10〜11

私たちは危険物が目に迫る気配を感じますと、すぐにまぶたを閉じ ます。そのようにして自分のひとみを必死で守ろうとするものです。 ひとみが体の中で最も重要な器官と良く知っているからです。 そのように、神は私たちを必死で守られます。ただし、その守り方 は実にユ二−クです。それはふかふかした羽布団の中に優しくくる むようにして、守ることとは異なり、時には厳しい荒野の中で守ら れるのです。荒野の育った樹の上で、母鳥はひな鳥の成長と飛行を 目指します。もし子が一生飛べないならば、厳しい世界では生き延 びることができないと悟っているからです。そこで、母鳥は千恵を 尽くして、わが子の自立をうながすのです。これこそが本当の愛で あり、守りなのです。人生にしばしば起こる試練は、これと良く似 ています。従って私たちは苦しみに出会うとき、深遠な神の愛を感 じるのです。試練の時でも、私たちの心には生きる勇気と平安が湧 いてくるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの 平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではな い。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)





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