巻頭言 2006年9月 |
礼拝と教育月間を迎えて
牧師 犬塚 修
主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。箴言21:1 |
私たちの心を不安に陥れるものの一つに「自力への過信」があります。
自分の力により頼むと、それが叶えられない時は、自分の非力や愛の
足りなさを痛感し、心がグラグラと揺れ動いてしまいます。そして、
こんな自分ではいけないと悩みます。心は不安と心配と罪責感で一杯
になります。そのいやな感情を打ち消したいと願って、さらに自分に
鞭打ち必死でがんばります。それでも事態は良くならず、さらに心は
脱力感と無力感に襲われます。この悪循環の泥沼からどうしたら這い
上がることができるのでしょうか。それは、私たちの心を自己分析す
るという悪習慣をストップさせ、人生の方向を定めるのは私の力では
なく、実は主なる神であると強く確信することによります。自分のあ
くなき努力で人生が定められるというのは大きな誤解です。主のみが
すべてをなされるお方ではないでしょうか。私たちの人生の真の教育
者は主ご自身です。私の言動が自分や人の人生を決めると思うのは間
違いであり、傲慢です。そのようにカン違いが私たちを苦しめている
ことはないでしょうか。。人は他者を変える力などありません。激しい
台風を静める事は人にはできないように、この事実を早く認めること
です。その時、初めて私たちの心は平安を回復させ、のびのびと生き
られるようになるのです。
イエスの涙
牧師 犬塚 契
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。 ヨハネによる福音書11章 |
ラザロが病気だと聞いても動かなかった。(ラザロが病気だと聞いて
からも、なお二日間同じ所に滞在された。)「遅い!まだ来ないのか
!」という憤りが聞こえてもなお。結局、死後4日経ってようやくベ
タニアに到着。多くの人が悲しみにくれているのを見て、冒頭の聖書
箇所。▲「何がしたいんだ!」と思っただろう。涙流す前に到着して
くれれば…。
▲イエス様には復活することは分かっていたのだろう。ならば、なぜ
ニコヤカに登場しなかったのか。「大丈夫!心配しないで」と。では
、何の涙だったのか。この時、神の子は罪の報酬であり、アダムの遺
産である「死」がこんなにも人の関係を分断し、苦しみを負わせるこ
とに、「憤り」と「興奮」を覚えた。「死」に怒り、悲しみに共感を
した。そして、全宇宙を覆っている「死」を滅ぼすために、この後十
字架に架かる。「死は終わりではない」と。復活して「新しい天地」
が用意されていることを示した。裏切った弟子たちは、復活のリアリ
ティーの前で、この世への未練がなくなった。▲ラザロ復活の前にこ
う語っていた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のた
めである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」。「ほう
ら、大丈夫だったでしょ!」の栄光ではない。ラザロはこの後もう一
度死んだと思う。それでも、輝く神の栄光とは、天地万物を創造し、
イエスキリストを遣わし、新しい天地を用意する神の絶対的な支配。
神の怒りと共感、支配を思う。そして、それを今日、明日生きる私に
どう適応させていくのか、神の知恵をいただきたいと切に願う。▲そ
の子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助け
ください。」マルコ9章24節
正しい自己理解
牧師 犬塚 修
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国 民、神のものとなった民です。<ペトロへの手紙T 2:9> |
私達が深い被害者意識や劣等感にとらわれると、すべてが暗く否定的
に見えていきます。今まで輝いていた風景が突然灰色に変化してしま
うのです。また自分が非常に弱く惨めな人間に見えてしまいます。
しかし主は私達を全く別の存在とされました。主は私達を「この上な
いほどに尊くすばらしい存在」とされたのです。他の人間が自分のこ
とをどう評価し思っているかについては、余り考慮する必要はありま
せん。人は様々なことを言いますので、その言葉に一喜一憂するのは
空しいことです。だが、神の言葉については鋭敏であるべきです。
もしこの理解が逆になってしまうと恐ろしいことになります。私達は
人々の言葉に強く支配され、主の言葉には無反応となってしまい、ま
さしく本末転倒の状態になるのです。その時、心は激しく落ち込み生
きる気力を失います。更に行動も不安定になり、自暴自棄になります。
主の言葉を正しいとすべきです。私達を苦しめる否定的な感情は、主
から目をそらした時から忍び寄ってきます。主を自分の心の中心に迎
え入れず、相変わらず主を忘れ、無視し、ついには自分を自我王国の
王とみなしてはなりません。王座を主に明け渡す時、魂の平安が訪れ
ます。
「あなたがいないと始まらないんだよ。」
牧師 犬塚 契
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を 犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 <ヨハネ9章3節> |
運輸業界の闇カルテルを30年前に内部告発し、その報復人事として、
研修所に「一週間」の約束で飛ばされ、そのまま昇格も昇給もされず
、雑用以外の仕事が与えられなかった。買ったスーツは、入社時買っ
た1着。暴力団の脅し、裁判前の昇進の甘い話、それでも屈しない、そ
んな「窓際族」を30年間、生き抜いた人がいたことを知った。支えた
のは、家族と支援者と、美術館の解説のボランティア。抽象画を分か
りやすく解説した。来場者から「ありがとう」と言われるのが喜びだ
ったと。▲そんな串岡さんなら、この盲人の気持ちがよく分かるだろ
うか。「不要」「意味なし」「役立たず」…。ありとあらゆる声が聞
こえただろうと思う。弟子たちでさえ、彼の前で「罪人」と言葉を使
った。すでに心は硬化していただろうか、心にタコができていただろ
うか。それでもやっぱり痛かったと思う。涙は枯れても、もう一つ針
が心をチクリと刺した。使命がない、生きがいがない、意味がない、
やる気もでてこない。なんという辛さか。▲イエスキリストはこの人
を前にして言った。「神の業がこの人に現れるためである」。神様の
言葉を伝えた。神様の業は、「あなたがいないと始まらないんだよ」
。彼は坂を下りて、シロアムの池に行く力を得た。同じことを毎日、
神様は語る。その言葉を聞いていきたい。