巻頭言
2006年9月


2006年9月3日

礼拝と教育月間を迎えて

牧師 犬塚 修

主の御手にあって王の心は水路のよう。主は御旨のままにその方向を定められる。箴言21:1

私たちの心を不安に陥れるものの一つに「自力への過信」があります。 自分の力により頼むと、それが叶えられない時は、自分の非力や愛の 足りなさを痛感し、心がグラグラと揺れ動いてしまいます。そして、 こんな自分ではいけないと悩みます。心は不安と心配と罪責感で一杯 になります。そのいやな感情を打ち消したいと願って、さらに自分に 鞭打ち必死でがんばります。それでも事態は良くならず、さらに心は 脱力感と無力感に襲われます。この悪循環の泥沼からどうしたら這い 上がることができるのでしょうか。それは、私たちの心を自己分析す るという悪習慣をストップさせ、人生の方向を定めるのは私の力では なく、実は主なる神であると強く確信することによります。自分のあ くなき努力で人生が定められるというのは大きな誤解です。主のみが すべてをなされるお方ではないでしょうか。私たちの人生の真の教育 者は主ご自身です。私の言動が自分や人の人生を決めると思うのは間 違いであり、傲慢です。そのようにカン違いが私たちを苦しめている ことはないでしょうか。。人は他者を変える力などありません。激しい 台風を静める事は人にはできないように、この事実を早く認めること です。その時、初めて私たちの心は平安を回復させ、のびのびと生き られるようになるのです。



2006年9月10日

イエスの涙

牧師 犬塚 契

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。                  ヨハネによる福音書11章

ラザロが病気だと聞いても動かなかった。(ラザロが病気だと聞いて からも、なお二日間同じ所に滞在された。)「遅い!まだ来ないのか !」という憤りが聞こえてもなお。結局、死後4日経ってようやくベ タニアに到着。多くの人が悲しみにくれているのを見て、冒頭の聖書 箇所。▲「何がしたいんだ!」と思っただろう。涙流す前に到着して くれれば…。 ▲イエス様には復活することは分かっていたのだろう。ならば、なぜ ニコヤカに登場しなかったのか。「大丈夫!心配しないで」と。では 、何の涙だったのか。この時、神の子は罪の報酬であり、アダムの遺 産である「死」がこんなにも人の関係を分断し、苦しみを負わせるこ とに、「憤り」と「興奮」を覚えた。「死」に怒り、悲しみに共感を した。そして、全宇宙を覆っている「死」を滅ぼすために、この後十 字架に架かる。「死は終わりではない」と。復活して「新しい天地」 が用意されていることを示した。裏切った弟子たちは、復活のリアリ ティーの前で、この世への未練がなくなった。▲ラザロ復活の前にこ う語っていた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のた めである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」。「ほう ら、大丈夫だったでしょ!」の栄光ではない。ラザロはこの後もう一 度死んだと思う。それでも、輝く神の栄光とは、天地万物を創造し、 イエスキリストを遣わし、新しい天地を用意する神の絶対的な支配。 神の怒りと共感、支配を思う。そして、それを今日、明日生きる私に どう適応させていくのか、神の知恵をいただきたいと切に願う。▲そ の子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助け ください。」マルコ9章24節



2006年9月17日

正しい自己理解

牧師 犬塚 修

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国 民、神のものとなった民です。<ペトロへの手紙T 2:9>

私達が深い被害者意識や劣等感にとらわれると、すべてが暗く否定的 に見えていきます。今まで輝いていた風景が突然灰色に変化してしま うのです。また自分が非常に弱く惨めな人間に見えてしまいます。 しかし主は私達を全く別の存在とされました。主は私達を「この上な いほどに尊くすばらしい存在」とされたのです。他の人間が自分のこ とをどう評価し思っているかについては、余り考慮する必要はありま せん。人は様々なことを言いますので、その言葉に一喜一憂するのは 空しいことです。だが、神の言葉については鋭敏であるべきです。 もしこの理解が逆になってしまうと恐ろしいことになります。私達は 人々の言葉に強く支配され、主の言葉には無反応となってしまい、ま さしく本末転倒の状態になるのです。その時、心は激しく落ち込み生 きる気力を失います。更に行動も不安定になり、自暴自棄になります。 主の言葉を正しいとすべきです。私達を苦しめる否定的な感情は、主 から目をそらした時から忍び寄ってきます。主を自分の心の中心に迎 え入れず、相変わらず主を忘れ、無視し、ついには自分を自我王国の 王とみなしてはなりません。王座を主に明け渡す時、魂の平安が訪れ ます。



2006年9月24日

「あなたがいないと始まらないんだよ。」

牧師 犬塚 契

イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を 犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 <ヨハネ9章3節>

運輸業界の闇カルテルを30年前に内部告発し、その報復人事として、 研修所に「一週間」の約束で飛ばされ、そのまま昇格も昇給もされず 、雑用以外の仕事が与えられなかった。買ったスーツは、入社時買っ た1着。暴力団の脅し、裁判前の昇進の甘い話、それでも屈しない、そ んな「窓際族」を30年間、生き抜いた人がいたことを知った。支えた のは、家族と支援者と、美術館の解説のボランティア。抽象画を分か りやすく解説した。来場者から「ありがとう」と言われるのが喜びだ ったと。▲そんな串岡さんなら、この盲人の気持ちがよく分かるだろ うか。「不要」「意味なし」「役立たず」…。ありとあらゆる声が聞 こえただろうと思う。弟子たちでさえ、彼の前で「罪人」と言葉を使 った。すでに心は硬化していただろうか、心にタコができていただろ うか。それでもやっぱり痛かったと思う。涙は枯れても、もう一つ針 が心をチクリと刺した。使命がない、生きがいがない、意味がない、 やる気もでてこない。なんという辛さか。▲イエスキリストはこの人 を前にして言った。「神の業がこの人に現れるためである」。神様の 言葉を伝えた。神様の業は、「あなたがいないと始まらないんだよ」 。彼は坂を下りて、シロアムの池に行く力を得た。同じことを毎日、 神様は語る。その言葉を聞いていきたい。





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