巻頭言
2005年9月


2005年9月4日

「奉仕と献身」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5章8〜9)

献身とはありのままの自分を主に捧げることです。それは弱く絶望的な自分かもしれませんが、それでも、主の愛と絶大な赦しを信じ、誠実に主に従う事です。私の恐ろしい罪のためにも、イエス様が身代わりになって死に、恵みによって無罪放免された事を信じるのです。「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と告白する事です。献身の志が失われた心とは、自分自身に失望落胆し、自らが犯した罪のために自分を責めるという否定的で暗い感情の奴隷になり「どうせ、私は人生に失敗したのだから…」「どうせ、僕はダメなんだ…」というこの「どうせ」という自己卑下の考えに落ち込んでしまう事です。そこには自暴自棄や自己破壊の落とし穴が大きな口を開けています。多くの神の子たちがこの穴に落ち込み、信仰の破線にあいました。主に赦されない罪はありません。また心から悔い改めた後は、新たな出発を期し、凛とした光の子としての生き方を実行する事です。たとえで言えば、新車を乗る時は決して車を傷つけまいとして真剣に運転しますが、一度二度続けて、事故を起こし、ある部分が破損すると、以前のような緊張感が薄れ、「どうせ、傷ついたのだから」とぞんざいな運転をしてしまいがちです。それは献身的な歩みでなく開き直りとなります。罪赦された光の子として常に明るく再出発したいものです。



2005年9月11日

新しい革袋

牧師 犬塚 修

「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」マタイ9:16〜17

主は私たちに、新しいぶどう酒のような豊かな恵みを注ごうとされています。今後、主が教会に、また私たちの人生に与えようとされている恵みは、大きなものであると信じます。それは「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。(イザヤ43:18〜19)とみ言にあります。しかし、その恵みを受け入れる私たちの信仰がどんな状態にあるかが問題です。もし、私たちが正しく主に応答し、真摯に従う事ができるならば、更なる祝福に与るでしょう。だが、もし「古い革袋」のように、硬直し、古びたままの死んでしまったような心のままであるとすれば、せっかくの新しいぶどう酒は無駄になってしまいます。ゆえに、もし自分の信仰に主のみ心に叶わない部分があるならば、それを切り捨てる決意が必要です。それによって、新しい救いの出来事が起こされていくのです。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ15:2)



2005年9月18日

生贄をささげる

牧師 犬塚 契

「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。」(レビ記1章)

現在の礼拝は賛美、祈り、献金、説教などから構成されているが、祭壇や幕屋でのイスラエルの礼拝行為の中心は「生贄」だった。彼らは外でとってきたものではなく、自分の飼っていたもの、大事に育てた家畜を選んで捧げた。礼拝者たちは、最も大切なものを選び、幕屋の入り口の広い場所に牛をひいてきた。祭司は、傷がないか調べた。祭司が生贄を吟味している時、幕屋の前には緊張した空気が流れていた。イスラエルの民は、生贄を通して神との交わりの回復を求めたし、その後の祝福も当然意識した。けれども、その恵みを得る前に自分自身が礼拝者として受け入れられるかどうかが最大の関心事であった。傷がないことを確認されると動物を連れてきた人は生贄に手をおいた。その行為は、本当は自分が罪の報いを受けなければならないのにも関わらず、自分の代わりに、罪が動物に移行することを象徴的に示していた。その時に思い出せる限りの罪を思い起こし告白した。動物の頭の上に手を置くのはただ単に手を置くだけのことではなく体重をかけて、体を委ねて寄りかかり、力をいれて頭を押さえる行為であり、旧約時代の「信じる」という行為は「委ねる、依存する、泣かせる」という意味があった。礼拝者は自分の手でそれをほふった。暴れる動物を無理やり押さえ、悶えながら苦しむ動物を見ながら、自分の汚れがその血によって赦されることを確認していった。血は命の象徴だった。そうして、命が取り去られていくことを一連の行為によって理解し、自分の汚れが血が流されることによって、聖められていくことを礼拝者は目にしていた。



2005年9月25日

病の意味

牧師 犬塚 修

病まなければ ささげ得ない祈りがある。
病まなければ 信じ得ない奇蹟がある。
病まなければ 聞き得ない御言がある。
病まなければ 近づき得ない聖所がある。
病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある。
おお 病まなければ 私は人間でさえあり得ない。          
河野進

生きている私たちにとって病にかかることは苦しいものです。できることならば、避けて通りたいもの、それが病です。ところが、私たちは人生の途上で、病は過酷にも襲いかかってきます。そして、私たちの心は平安を失い、オロオロとなり、一体これからどうなるのかという不安と動揺に心身が震えるのです。果たして、病というものは、私たちを不幸に陥れるところの忌むべきもの、不幸の元凶なのでしょうか。断じてそうではありません。病もまたイエス様の降臨により、祝福に変えられるのです。預言者イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(イザヤ53−3)と書きました。この不思議で、神秘的な人物は約700年後に世界の舞台に登場するナザレのイエス様のことでした。全人類が待望してやまなかった救世主(キリスト)の姿は、驚くべきことに、このように病を担う姿だったのです。世界でで最も影響力を与えたキリストは白馬にまたがり、ナポレオンのような勇躍する英雄としてではなく、人々に軽蔑され、見捨てられ、無名であり、かつ、痛みを負った弱い人物として描かれたのです。この予言を読んだ人々は、自分の願望とみ言との余りの落差に戸惑い、途方に暮れたことでしょう。私たちは時に、病に苦しめられますが、その辛い現実にあって、「わが子よ、わたしはあなたと共に、過去、現在、将来、そして永遠にいたるまでも共にいる」と力強く語られるイエス様を見ることができます。この主は苦しい十字架にかかり、復活された栄光にいたる全能の神の御子自身でした。私たちは上記の詩のように、病を体験することで、本当の幸福、真の自分を豊かに回復していくようになるのです。


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