巻頭言
2003年9月


2003年9月7日

「伝道と実践」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」  (第一テモテ2:4)

神のみ心はすべての人を滅びから救い出すことであり、その目的のために、主は私たちを伝道 者として、召され、豊かに用いられます。神の愛は大海原のごとく深遠であり、大空のごとく広 大無辺です。もし、すべての人が心の戸を開き、主の無尽蔵の救いを受け入れるならば、神 の恵みは驚くほど降り注がれることでしょう。私たちはいかに多くの善行や功徳を積み重ねても、 決して救いを得る事はできません。永遠のいのちを得るためには、イエス・キリストを信じることの 他には道がありません。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このこと は、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8〜9) 日々、幼子のように素直に主の恵みを受け入れ、祈りとみ言葉をもって、天国への凱旋の道を 雄々しく歩み続けることです。

さて救われた者は、神の栄光を現す行いをしたいと願います。主の巨大な愛に感動し、出来る 限りの感謝を現したいと思うからです。さて「伝道と実践」が9月のテ−マです。信仰とは救いに 至る根であり、また行いは、救いの結果です。「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを 伴わない信仰は死んだものです。」(ヤコブ2:26)これは、胸を刺し貫く厳しい一言です。私たちは 単に主を信じるだけではなく、敢然として信仰の実践をする神の器、福音の使者となりたいと願 わずにはおれません。ヤコブは決然として愛に基づく行いを実践しようとしました。その生き方は誠 実でした。そして、その真実、かつ忠実な行いは、その後2000年に及ぶキリスト教会の良い土台 となったのです。



2003年9月14日

「敬老の日」を覚えて

牧師 犬塚 修

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの 慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 ルカ2:25

「シメオン」とは「(神が)聞かれる」という意味です。愛の神は、私たちの言いたい事、叫びたい事の すべてを耳を傾けて聞き、その後必ず、救いの道へと導いてくださいます。老聖徒であったシメオン は、神と共に生きた信仰の人生を送りました。彼は幾多の苦労を重ねたでしょうが、常に神の約 束を信じ、愛する祖国が主に立ち帰り、悔い改める事によって深く慰められることを待望していたの です。すなわち、その慰めとは、イエスと出会う事に他なりませんでした。そしてついに、その喜びの日 が訪れました。「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律 法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神を たたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わた しはこの目であなたの救いを見たからです!」(ルカ2:27)シメオンの長年の祈りは、ついに聞き届けら れたのです。彼は生まれて初めて、魂の奥底に生じた霊的な感動に震えています。私たちにとって至 福の出来事とは神の御子イエスと出会う事にあります。イエスを信じる時、私たちの心は無気力から 生きがいへ、不安から平安へ、混乱から調和へ、絶望から希望へと、悲しみから歓喜へとあざやかな 変貌をとげます。私たちの教会には、風雪に耐えぬかれ、いぶし銀のような輝きを放つ老聖徒の兄姉 がおられます。この人々は、その長い人生において、どのように生きるべきかを体全体で証してくださっ ています。心から感謝したいものです。



2003年9月21日

教会学校強調月間の中で

牧師 犬塚 修

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の 冠をいただくからです。  ヤコブの手紙1:12

主は偉大な教育者です。主は私たちの善き指導者として、いろいろな信仰の訓練を施してくださいます。 それは、試練という形で現されます。頭だけの養育は弱いものですが、痛みを伴う実践的教育は確実に身 につきます。試練を通して、私たちは雑草のようなたくましさ、強さ、粘りを体得するようになります。モ−セは 荒野において、40年間に及ぶ訓練を受けました。その結果、エジプトの王子としての虚栄心やプライドの高 さは粉々に砕け散り、謙虚な人、雑草のような信仰の人となったのです。人生には辛いこと、逃げ出したいと 思うほど、耐え難い苦しみに襲われる時もあるでしょう。そのような時、私たちは、天を仰ぎ、そこに神の栄光 と助けを見ると同時に、目を下に向けねばなりません。下には、踏まれるほど強くなる雑草が生い茂っています。 主はこのようなものをも用いて、私たちを教育してくださいます。雑草は雨の日も風の日もジッと耐え抜きます。 少しも格好いい姿ではありませんが、その不屈の姿は、苦難の預言者の姿を思い出させてくれます。「彼は 軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたち は彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったの に、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたの は、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らし めによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:3〜5)主 の教育によって、私たちは主の苦難の一部分を共有するという栄光に与る事ができるのです。



2003年9月28日

心のいやしについて

牧師 犬塚 修

わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天と地を指して、あるいは、その他どんな誓い 方によってであろう、裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」とし なさい。 ヤコブの手紙1:12

私たちは、しばしば「心が病む」という表現をしますが、より正確に言いますと「感情の不安」と同時に、 実は「理性の混乱」の面が強いのです。私たちはイエスさまの愛と赦しの力によって、悪を耐え忍び、赦 すことも少しづつ、できるように成長していきます。いかに理不尽な仕打ちも、赦す感情が与えられること は、主による奇跡とも言うべき恵みです。
しかし、心から赦せても、なおも、解決しない場合もあります。辛い出来事が起こった時、その厳しい現 実を「ただ受け入れよ、我慢せよ、そうするならば、すべてが円くおさまる」という考え方をすると、正義を 求める理性や悟性は深く傷ついて、うめき苦しむのです。神は人間に善と悪の区別する力を与えられ ました。もし、創造の摂理に反してまで、悪をも善としなければならなかったり、ただ屈服したり、盲従す るしかできないならば、私たちの心は混乱をきたし、鬱状態になってしまいます。すなわち、黒を白とすべ きという誤った思考が、次第に私たちの心を病ませるのです。ではどうしたら、良いのでしょうか。まずは、 み恵みに支えられて敵を赦すことです。しかし、理性の世界では「然りは然り」、「否は否」とはっきりと区 別をするべきなのです。そうする時、初めて、わたしたちの感情は理性と和解し、安らぎを得て、段々とい やされていきます。義を義とし、不義を不義とすることこそが大切な決断です。さらに、すべてを知っておら れる神に一切をゆだねてしまうことです。これが最もすばらしい解決の道なのです。


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