巻頭言 2002年9月 |
「礼拝と伝道」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさ
い。 第二テモテ4:2 |
現代人は何の目的で生きているのか分からないままで生きています。その結果、虚無的で
自己破滅的な道に堕してしまっているのです。聖書は人間としてどう生きるべきかについ
て教えています。聖書の真理を伝えることが礼拝と伝道の目的なのです。
1541年、スイスの宗教改革者・J・カルヴァンは、新生したキリスト者の信仰はみ言
葉の真理に固く結びつかねばならないと確信し、ジュネ-ブ教会信仰問答書を書き上げま
した。その冒頭は次のように始まります。――一「人生の主な目的は何ですか」 答
「神を知ることであります」 ・問二「どんな理由であなたはそういうのですか」 答
「神はわれわれの中にあがめられるためにわれわれをつくり、世に住まわせられたのであ
りますから。また、神はわれわれの生の源でありますから、われわれの生を神の栄光に帰
着させるのはまことに当然であります」 ・問三 「では人間の最上の幸福は何ですか」
答「それも同じであります」 ・ 問四 「なにゆえ、それを最上の幸福というの
ですか」 答「それを欠くなら、われわれの状態は野獣よりも不幸であるからでありま
す」 ・問五 「以上によって、神に従わないほど大きな不幸はほかにないということ
がわかります」 答「まことにそうであります」――――
実に明快な人生の指針が記されています。この真理を忍耐強く語り続ける事によって、現
代人の疲れ切った魂はいやされ、健やかにされていくのです。信仰は個人的なもので、そ
んなに熱心に伝道すべきではないという意見があります。断じてそうではありません。永
遠の滅びに至る者に対して何もしないでいる事が本当の愛と言えるでしょうか。愛がある
ならば、たとえどんなに嫌われようとも、神の愛を伝えるべきであります。そうでないと、
私たちはますます空しくなってしまうでしょう。
伝道の主
牧師 犬塚 修
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正
義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍
の主の熱意がこれをなしとげられる。 イザヤ9:6 |
伝道の働きは確かに私たち自身がなすものです。しかし、本当は伝道されるのは主ご自身
なのであります。「ミッシオ・デイ」とは「神の伝道」という意味ですが、その意味するとこ
ろは、神は私たちを用いて伝道のみわざを推し進められるという意味です。私たちが自分
の我力でいかに熱心に伝道しても実を結ぶことはありません。そもそも、私たちが人の魂
を変えることなど不可能なことです。聖霊が臨むとき、はじめて人は変えられていきます。
ですから、私たちに求められていることは、何よりも祈るというつとめです。祈りによっ
て、聖霊は力強く働き始められます。熱い祈りなくして救いのみわざは起こり得ません。
万軍の主は、弱い私たちを用いて、偉大な救いを現すことをなさいます。それは、本当に
ふしぎなことで、その深い恵みを思いますと、感謝せずにはおれません。もし、伝道によ
る救いの責任が私たちに任されているならば、私たちは過度の責任感で苦しむことでしょ
う。しかし、主は私たちに対してあわれみ深くあられ、主ご自身が責任を負って下さり、
私たちを重圧から解放された者とされるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも
わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの
軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの
軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28〜30)私たちは子牛です。く
びきの重さはすべて、親牛にかかるようにできています。ですから、子牛は大変気楽です。
一緒に畑を耕すとき、後ろを振り返ると、整然と耕されています。その豊かな結果は、す
べては親牛であるイエス様がなされた奇しい足跡です。しかし、子牛も共に労苦したとい
う栄誉を受けます。伝道とは、このように主と共に働き、豊かな実を将来に残すというす
ばらしい業であります。
敬老の日を記念して
牧師 犬塚 修
わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びそ
の中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者
もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ… イザヤ書65:19〜20 |
ただ、年を重ねるだけでは、何の喜びもないのではないでしょうか。神に愛され、貴い使
命を授けられることで、豊かな生きがいが生まれるのです。確かに、年を取ると体のあち
こちが不自由になったり、疲れを感じることもあるでしょう。若い頃は、平気で徹夜もで
きたのですが、年を重ねるごとに、無理がきかなくなるのも事実です。けれども、主は長
い人生において、ご自分と苦楽を共にした悲しみへの共感能力の豊かな人を必要とされて
います。ですから、大昔からイスラエルでは、長寿は神の祝福のしるしでした。アブラハ
ムは75才で、ハランの地を旅立ち、約束の国カナンに向いました。その時、妻のサラは、
65才でした。また、モ−セは80才の時、民の指導者としての召命を受け、立ち上がり
ました。年を重ねていくことのすばらしさの第一に、謙虚である点にあります。自分の限
界を知り、人にゆだねること、また譲るようになります。また、祈りによって若い人を支
えるのです。第二は自分の命の限りを悟り得ることです。「わたしたちの生涯は御怒りに
消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健や
かな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、
わたしたちは飛び去ります」(詩編90:9〜10)第三は、永遠の世界に対する希望に生きるこ
とです。「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、
神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されてい
たからです」(ヘブライ11:16)以上のほかにも数多くのすばらしさがあります。「敬老」とは
正に、主にあっては「恵老」そのものです。
伝道の急務――教会学校強調月間を迎えて
牧師 犬塚 修
わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたので、わたしのは
らわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。幼子は母に言う。
パンはどこ、ぶどう酒はどこ、と。都の広場で傷つき、衰えて、母のふところに抱かれ、
息絶えてゆく。おとめエルサレムよ、あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。
哀歌2:11〜13 |
9/16の「連合のつどい」は18教会、268名という史上最高の参加者となり、すば
らしい恵みの一時でした。午後のプログラムでは、当教会の青年たちが輝きを放っていま
したことを心から感謝したことでした。午前の講義においては、講師の先生が語られた一
言が胸を私の心を鋭く突き刺しました。「子供たちがみんな大人になる訳ではありません」
正しくその通りです。子供たちは将来に大きな夢を持って生きていることでしょう。しか
し、不慮の事故や重い病気、最近激増している虐待や、殺人などで、その命を落とすこと
がいかに多いことでしょうか。その彼らに対して、永遠の命がここにあること、天国があ
るという希望を与える使命は私たち大人にあるのです。にもかかわらず、悠長に構え、い
つでも語ることができると「待つ姿勢」ばかりではなかったかと胸が衝かれました。大人
の考えではなく、子供の現実から見つめるならば、何を差し置いても彼らと関り、伝道し
なければなりません。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠
の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)本当に教会学校の使命は非常に重要
です。私たちの行動に子供たちの一生が、また死後の運命もかかっていると思いますと、
緊張を覚えます。そして、哀歌作者の魂のうめきと叫びがこだましてきます。来週は「招
待礼拝」です。子供だけではなく、大人もイエス様の永遠の救いに与るべきてあります。
もし、私たちが語るべき言葉を語らないならば、怠惰、怠慢、無責任という責任が問われ
るのではないでしょうか。悔い改めをせずにおれません。
幸福への門
牧師 犬塚 修
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わ
たしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あ
なたがたは安らぎを得られる。 マタイ11:28〜29 |
9月26日に婦人会による「富弘美術館」見学に総勢25名ででかけました。朝7時から13時
間に及ぶ長旅であったにもかかわらず、少しも疲れを感じないほどのすばらしく楽しい充
実した一日でした。バスの中での交わりも笑いがはじけ、キリストにある交わりの楽しさ
をしみじみと覚えたことでした。さて、星野さんのつづる詩と絵は、実にすばらしく、私
たちの魂の琴線に触れるものばかりで、年間400万人が訪れるということも、なるほどと
うなずける感がいたしました。正しく信徒伝道者としての生涯を送っておられると思いま
す。1970年不慮の事故によって、最重度の障害者となった星野さんが必死の思いで、
口を使って書いたアイウエオはミミズが這ったような文字でした。しかし、翌年、彼はそ
の口で一つの聖書のみ言葉を紙にかきつづったのです。それはが、上記のマタイ11章のみ
言葉でした。この頃から紙に神による驚くべき人生の奇跡が起こったのです。彼が絶望の
淵から立ち直ったのは、キリストにすべての重荷をゆだねたからでした。それまでは、自
分が生きねばならない、自分ががんばらないと…といつも自分を励まし、責めてしました。
しかし、彼は悟ったのです。不幸はあながち不幸ではないと。むしろ、不幸は幸福の門に
すぎないと。1回や2回の不幸は悲しみをもたらすが、ドッとくる不幸はもう逆に幸福を
もたらすものであると、何という心の展開でしょうか。インタビュア-が「そこまで悟る
には大変な年月がかかったでしょうね」それに答えて「いつのまにかそうなったのです」
ビデオの中でさわやかに答える星野さんにはキリストの香が漂っているかのようでした。
そこには何の力みも感じさせない自由さがあふれていました。重荷をイエスにゆだねた人
は、何という幸福な人でしょうか。