巻頭言
2001年9月


2001年9月 2日

「主の救いと交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、 あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)

1984年に開かれたオリンピック・ロスアンジェルス大会において、アンデルセン 選手が女子マラソンに出場しました。炎天下でのレ−スは苛酷を極め、脱水症状になる 選手が続出しました。しかし、彼女は最後までレ−スを諦めませんでした。フラフラに なりながらも、ゴ−ルを目指すその夢遊病者のような姿には、私自身深い感動を受けた 事を、今も鮮やかに覚えています。人生も同じ気がします。「わたし自身は、既にいけに えとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い 抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」(第二テモテ4:7)と書い ています。「立派に」とは元来、「人に賞賛されるように、目立った」という意味ではなく、 「よくも」という意味です。つまり、よくもまぁ、私はこれまで主に守られてきたか…と いう深い感謝がこめられている言葉です。パウロの人生は苦難の連続でした。彼はつく づくと述懐して「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引 き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となっ たからです。」(第一コリント4:9)」と告白しています。それに耐えてきたのは、自分の力 や意志の強さによるのではなく、すべて主の愛にあふれたとりなしの祈りによると語る のです。いかにヨタヨタしながらでも、信仰のゴ−ルをめざす事を諦めず、ひたすら、 走り抜く事ができるのはただ、主の愛と祈りがあるからです。主の救いに与る生き方は 実に開放的です。今月はいかに主が私達のために多くの犠牲を支払い、完全な救いを全 うして下さったかを学び合いましょう。私達の人生はすべて主のものであり、主に救わ れ、担われて生きてきました。これからもそうです。それは霊的な喜びに溢れた道です。 主が陰で祈っていて下さることを確信しますと、生きる勇気が湧きあがってきます。故に、 何事にも決してひるまない事です。




2001年9月 9日

「主の救いと新しい創造

牧師 犬塚 修

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従って キリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、 キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。 (第一コリント5:16〜17)

「肉に従って」とは「人間的な思い、この世の考え方で」という意味です。キリストを人間的 なレベルで理解しようとするといつまでも聖書の真理を悟る事ができません。キリストはた だの偉人、すばらしい人格者なのでしょうか。また聖書も自分の人格形成のために有益な知 恵の書なのでしょうか。いいえ、それだけではありません。キリストは神の御子、救い主な のです。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らな ければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)とあります。キリストは二千 年前に、偉大な事をなされたが、今は私達とは直接は関係ないというのではなく、今も生き 生きと私達のために働き、新しい創造のみわざをなし続けておられる生ける神なのです。ゆ えに、全人類はこのキリストを礼拝するという聖なるつとめがあるのです。「実に、キリスト はわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔 ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方 を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」(エフェソ2:14〜15)て下さいま した。主はすでにすべての呪い、悲しみ、絶望も十字架によって打ち砕かれました。私達は、 新しいものとして、また今生まれたばかりのみどりごとして、熱い献身の決意を抱きつつ、熱 心に死に至るまで主に従い続けたいたいものです。アブラハムがイサクを捧げようとした信仰 に立って。




2001年9月16日

信仰に踏みとどまって

牧師 犬塚 修

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子の ように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。 信仰にしっかり踏みとどまって、 悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみ に遭っているのです。(第一ペトロ5:8〜9)

9月11日朝、アメリカを襲った史上最悪のテロは世界中を恐怖に突き落としました。 断じてあってはならない事が起こったのです。全身に震えのようなものを感じます。凶 悪事件の背後には嘲笑う悪魔がいる気がします。悪魔は牙をむき人間を用いて残忍な所 業をなすのです。ヒトラ−はユダヤ人に対して屈折した感情を抱き続けていました。そ して、成人した時、彼はとんでもない悪魔のわざを実行に移したのです。サタンは人間 の中にひそむ憎しみの感情を巧みに用いて、恐怖の世界を現出させるのです。したがっ て私たちの否定的な感情を十字架にかけて解放されている事が肝要です。そのまま放置 していると悪の根をはびこらせる事になります。サタンは信頼を不信に変え、善意を誤 解させ、愛を踏みにじり、希望を砕きます。サタンに打ち勝った主キリストを信じ、罪 赦された者は強烈に神の聖なる支配を確信して立つ事が重要なのです。「わたしたちの公 に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたち の弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わた したちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:14〜15)「あらゆる恵みの源である神、 すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自 身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがな いようにしてくださいます。」(同10節とあります。悪魔にかき乱されない:堅固な神信仰に 立って歩み続けたいものです。




2001年9月23日

自由の身

牧師 犬塚 修

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。 だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

「救い」には「解放」という意味があります。即ち、救われた者はあらゆる束縛から解放さ れた自由な新しい人間なのです。私達は何かのために自分を不自由にし、犠牲にして生き ていくために選ばれたのではありません。自分が自分らしく生きて良いのです。以前、国 家は国民を教育し、天皇のために命を捨てる事が美徳とするように教えました。そこでは 犠牲的な特攻精神がほめたたえられました。しかし、これは間違った道でした。人間は神 によって、幸せになるために生まれたのです。自分を殺して、我慢に我慢を重ねて生きる 事は悲しく非人間的な事です。自分だけの命を、あなただけのかけがえのない人生を大切 にする事です。まず自分を愛する事がないならば、どうして隣り人を愛する事ができるの でしょうか。愛とは神に、そして次に自分に向けられるものです。私達は時々、自分を殺 す事があります。自分を犠牲的な精神で暗い所に閉じ込めてしまうのです。その結果、た とえ人には好意をもたれても、本来の自分らしさは死にますので、幸福でなくなります。 本当に自立した人は、自分を愛する人です。そしてこのような人は、隣人の立場に立てる 人となっていきます。アブラハムは甥のロトの事をいつも気遣い、最善を尽くそうとしま した。また主を信頼して生きた結果として自分を愛する自由な人は将来の事を恐れずに、 勇敢に旅立つ事ができるようになるのです。自分が75才という年の事を考えたならば、 ハランの地を旅立つ事は無謀な事、非常識な事と人から批判されたでしょうが、彼には確 信がありました。それは主がいつも共におられるという確信でした。彼はひるむ事なく、 主に従って孤高の道を突き進みました。私達はアブラハムの霊的な子です。もはや、過去 という後ろを振り返らず、将来を見据えて一歩を踏みしめる事です。




2001年9月30日

それが私の習慣ですから

牧師 犬塚 修

また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、 自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具と して神に献げなさい。(ロ−マ6:1)

先日開かれた東日本バプテスト大会においては、私は「スチュワ−ドシップ」についての 分科会に参加しました。その中で、講師のA牧師が次のような事を言われたことが印象 的でした。「私達の教会にとって祈祷会は非常に重要です。そこに参加することで、初 めて教会の痛みや重荷、課題が見えてきます。そして共に祈り合うことで一体感が生ま れ、教会は信仰的な一致が生まれてきます。さて、この祈祷会に毎週、85才になる姉 妹が必ず、出席されるのです。ある人がどうしてそんなに熱心に出席できるのですか? という質問を受けた時、その姉妹は淡々と静かに答えられました。それが私の習慣です から。これが答えでした。」この事を聞いた時、私は深く感動しました。確かに私達は 自分に喜びがあるから、主のために何かをしようとするのは、何となく違うような気が してしまうものです。もし、そうならば、信仰生活は人間的な不安定な感情に左右され たものになってしまうからです。たとえば、昨日は喜びがあったから奉仕したが、今日 はないので、奉仕しないというのでは、不安定で肉的な信仰の歩みになってしまいます。 主が私達に求められる生き方はそのような揺れ動くような信仰ではなく、万一、何一つ 感動することがなくても、絶えず淡々と礼拝や祈祷会を守り、聖書を淡々と読み続けて 行く習慣化された生き方ではないでしょうか。ごく当たり前のように神第一に生きる事 こそ、すばらしい道なのです。このような習慣を持った時、ふしぎにもすべてが感謝と 喜びに変えられていくのです。淡々と奉仕に励む事です。人間中心の生き方を習慣化し ますと、神中心的な生き方が重荷となり、億劫になります。私達は自分のすべてを義の 道具として神に捧げて生きたいものです。



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