巻頭言
2000年9月


2000年9月 3日

「主の主権と伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほか よりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっ と見栄えよくしようとします。(第一コリント12:22〜23)

愛に基づく主の主権は私たちにとって非常に深く広いものです。その恵みと絶大な力を強く 信頼することです。私たちは決して自分の小さな尺度(律法主義的な考え方など)を絶対化し てはなりません。「私は必要とされていない、無益なつまらない人間だ」という悲観的な思い は主の主権をこばむものとなる危険性があります。たえず、自分の弱さを嘆き、自己否定的 に生きるならば、信仰は死んでいきます。

パウロは「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷 で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしませ ん。」(同4:3)と大胆に書いています。彼は自分へのこだわりを捨てました。自分の失 敗や足りなさばかりを数えず、主のあわれみと愛を数えました。ここにパウロの偉大さがあり ました。

私たちもパウロのようにおおらかに自分を愛したいものです。たとえ、どんな弱い自分であっ ても、「私はイエス様の血の贖いによって、無条件に愛されているのだ。」と確信することです。 「主は打ち砕かれた心に近くいまし…主に従う人には災いが重なるが、主は そのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」 (詩編35:17〜19)とあります。主は確かに私たちを固く守り、支えられます。だから、 他よりも弱い部分にこそ、主の特別な愛が注がれることを信じて、平安のうちを歩みましょう。 自分を裁くどころか、逆に自分をこよなく愛し、自由自在に歩みましょう。主は私たちの人 生にすばらしい主権をあらわされます。主に従う人に、神の恵みが追ってくるのです。




2000年9月10日

神の賜物

牧師 犬塚 修

わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。 人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。 (コヘレトの言葉3:12〜13)

「苦楽」とは「苦労と楽しさは深く結びついている」という考え方を示しています。確か にこれは真理です。とはいっても、もし「苦労」ばかりに目をとめていると、過度に 心配性で暗い生き方になってしまいます。むしろ、私たちはもっと「楽しさ」の方に力 点を置いて歩むことが大切な気がします。

なぜならば、私たちの楽しさは自分の努力 の結果というよりも、神から来る恵みの賜物だからです。クリスチャンになる前の私 は人間的な努力を絶対視し、努力しないことは罪悪と考えていました。これは人間の わざこそが最も重要なのだという信念によるものでした。しかし「人間は良い働きをす ることで、ようやく良い報いや評価を受ける」という考えは、何もできない者は人生の 敗北者と見る危険性があります。

本当に何もしないことは罪なのでしょうか。決してそうではありません。むしろ、努力 だけを善とする生き方は、私たちをいつもイライラとするような怒りに満ちた不安定な 生き方に陥らせるのです。み言には「わたしは知った。すべて神の業 は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と」(14節)あり ます。このみ言は、私たちが主にささげることができるものは、私たちの働きやわざで はなく、感謝と讃美ということを教えています。ここに自力ではなく、キリスト信仰 による義に生きることの素晴らしさがあります。「しかし、不信心な 者を義とされる方 を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ロ−マ4:5)

キリストを信じて生きることが喜びの人生なのです。無論努力が不要なのではありま せん。努力するエネルギ−も主が与えられると信じて生きる道なのです。




2000年9月17日

敬老の日を覚えて

牧師 犬塚 修

わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある 主の日のこと、わたしは"霊"に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く 大声を聞いた。(ヨハネ黙示録1:18〜19)

人は主に従って年を重ねると、より輝く人になっていきます。その人からキリスト の芳しい香りが放たれるからです。それは、へりくだりと従順さの香りです。

主の弟子のヨハネもそういう人でした。黙示録を書いたのはこの人物と言われてい ます。彼は忠実な信仰生活を続けた結果、地中海の孤島パトモスに流刑されました。 それは余りに悲しい最期に見えました。しかし、実はそれはすばらしい主のご計画 でした。彼はその島において、主から壮大な幻を与えられ、将来についての神の 永遠のご計画を示す人になりました。彼は最晩年においても、不朽の書を残した のです。

このように、神は私たち一人一人に最もふさわしい使命を託されます。主に従う 人は悲しみや失望感の中で死を迎えることはありえません。大切な仕事がまだ残 されています。それは、新しい未来を望み見つつ、福音を証ししていくことです。 主の復活の証人として、私たちは主のために奉仕する喜びを与えられています。

アブラハムは75歳という高齢で新天新地を目指して旅立ちました。彼は青年の ように若々しく、前に向かって前進しました。主にあって大きな夢を描いて生きる 時、私たちは年を重ねるごとに輝くのです。私たちの教会にもこのように輝いた 人たちがおられます。本当に感謝なことです。このことにより主の御名を讃美 しましょう。




2000年9月24日

主の主権を信じて

牧師 犬塚 修

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセ と共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。 (ヨシュア1:5)

主の主権を信じて生きるとは人の支配に屈しないという生き方です。キリストだけ を畏れる時、人々の理不尽な仕打ちや過ちにも勝利することができるようになり ます。また、人から心ない言葉を受けても、動揺することなく、聞き流すような精 神的な強さも持つことができるのです。私たちは人の何気ない言葉にも支配され、 平安を失うという弱さを持っています。いやなことがあるとイライラし、平安が吹 っ飛んでしまいます。それは私たちが神の言葉よりも、人間の言葉により重きを置 いているからではないでしょうか。

神の言葉を軽んじる時、すべてが狂ってくるのです。確かに人の言葉に依存すると心 は弱くなります。「人間に頼るのをやめよ。鼻で息をしているだけ の者に。どこに彼の 値打ちがあるのか」(イザヤ2:22)「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること 、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」(ロマ12:18)。

口惜しい事、ガマンならない事があっても、主の受けられた十字架の苦しみを思い、 それに耐えることは、勇者の生き方です。真の勇者は、目先のことではなく大きな 永遠という尺度で、物事を見つめ直します。

ヨシュアはモ−セの後継者としての任命を受けた時、不安であった事でしょう。 しかし、彼は神の言葉を確信し、今は良くても後でドンドン悪くなるかもしれないとい う悲観論者ではなく、必ず良くなるという楽観の人となったのです。



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