巻頭言
1999年8月


1999年8月 1日

「主に仕える教会」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。 「わたしの来る時まで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係が あるか。あなたは、わたしに従いなさい(ヨハネ21:21〜22)

「主に仕える教会」という言葉に胸がワクワクします。しかし、知らず知ら ずのうちに「主に命令する」こともあり、ドキッとさせられます。たとえば、 自分の思い通りにいかないと、次第に心が疲れてきて「主よ、どうしてうま くいかないのでしょうか…」とつぶやく時はないでしょうか。

ペトロも彼( ヨハネ)のことが気になって仕方がありませんでした。「この人はこれから どうなるのでしょうか」という質問に私はペトロがいかに気配りの人、愛の 人だったかを感じてしまいます。人は皆、愛するが故に悩むのです。しかし、 それは彼にとってプラスにはなりませんでした。そして主は彼の思い煩い、 心配症から解放しようとされたのです。その答えは一見冷たいように見えま すが、実は彼の根本的な問題を解くものでした。無意識の内にペトロの心に 「主よ、こうして下さらないといやです。納得できません。」という主への密 かな命令が潜んでいたのです。

しかし、ヨハネのことは主にゆだねるべき事 柄でした。「彼が今どんな状態にあろうとも、それは私の御手の中で起こって いる事であって、決してあなたの問題や責任ではない」と言われたのです。 私たちはことがうまくいかないと自分を責め始めないでしょうか。「私が至ら なかったので…」と自分を裁くのです。しかし、決してそうしてはなりません。 私たちに必要なことは自分が主に従うことだけです。従っていくと、時が満ち て奇跡が起こされるのです。




1999年8月 8日

「@AB」

牧師 犬塚 契

@どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。 A何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。 Bそうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとを キリスト・イエスによって守るでしょう。  (フィリピ4:6〜7)

@どんなことでも、神に相談してみる。コンタクトレンズを落としたときから、 罪の罠に引きずられたとき、死の陰の谷を歩むときまで、すべてである。  神様はあなたに恋をしている。話がしたいし、相談もしてほしい。あなたの一挙 手一投足まで関心を持っておられる。たとえそれがどんな事であっても、どんな時 であってもである。恋は自分本意で、愛は相手本意だど聞く。神様は、自分本意 ではないか。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」くだ さったのであるから。

Aクリスチャンはいつも自分の罪の問題について思い、世の中の動静について考え、 細く静かな神の御声に耳を傾ける。ともすると、眉間にシワがよりそうなことばか りである。しかし聖書に流れているメッセージは、常に喜びなさい、感謝しなさい である。喜ばなきゃいけないのでなく、喜んでいいのだ、どんなことがあっても感 謝していいのだ。まず感謝から始めることができるのは、クリスチャンの特権であ る。

B新改訳、口語訳では「平和」は「平安」と訳されている。思いもよらないくらいの 平安が約束されているのである。心を神に知っていただく、思いをぶつけてみる、打 ち明ける、と人知では想像もできないくらいのBが来るのである




1999年8月15日

日本はどこに行くのか

牧師 犬塚 修

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。 なにゆえ、地上の 王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。 「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と。(詩編2:1〜3)

今日私たちは54回目の敗戦記念日を迎えた。今自国が犯した罪について悔い改めね ばならないこの時に「靖国神社の分祀問題」が持ち上がってきている。

最近の三党の 横暴さは国民を馬鹿にしたもので怒りを禁じ得ない。数にまかせてのファッショ化 はとどまることを知らない。少数意見を抹殺していく姿は醜悪である。なぜ、彼ら が国民の投票で選ばれていくのか、ふしぎでならない。私たちは彼らによって、痛 めつけられているのに、尚も彼らに操られているというのは、精神的にマゾヒスト (自虐を好む傾向)に堕している気がしてならない。

日本はもはや民主国家とはい えない。彼らが求めてやまないのは、天皇を君主と仰ぐ国家なのかもしれない。 歴史についての感覚が全くない頑迷で暗愚な政治屋たちが国を狂わせていく。悲し みと怒りを覚える。「日の丸・君が代」法制化は何の討議もないまま、議決された。 議論したら、自民党の連中は困ったことになると知っていたのだろう・だれにも知 らないままで、また、知らせない事で事を済まそうとするのは卑怯である。

これに対して、 日本のマスコミの報道は非常に甘い。物事の本質を見ようとはせず、公平性の偽装 で国民を欺くその罪は重い。自自公の愚劣さと無責任さは、今に始まったことでは ない。しかし、それの害毒性を指摘できない大新聞、テレビとは一体何であろう。 日本が軍国主義に傾いていた時、マスコミは時の権力者に媚びた。彼らは大本営放 送の罪を認めたはずなのに再び、同じ失敗を繰り返している。

私たちは、一部の権力 者たちの暴虐と巧みな愚民化政策に怒りの目を向けねばならない。日本は再び、人 間性を剥ぎ取られ、天皇のために生きるという思想にならされてはならない。



1999年8月22日

白く塗った墓

牧師 犬塚 契

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似て いるからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 (マタイ23:27)

今日私たちは54回目の敗戦記念日を迎えた。今自国が犯した罪について悔い改めね ばならないこの時に「靖国神社の分祀問題」が持ち上がってきている。

「白く塗った墓」この言葉が、最近よく思い起こされる。牧師であるから、説教もするし、 お祈りもする、しかし自分は本当に御言葉に生きているのか。そう反省した時に思い出すの だ。身の程もわきまえずに偉そうに語った時、自分の事を棚にあげて人を裁くとき時、言行 不一致な時、自らの弱さといたらなさを思う時、どうしようもないくらいの真っ暗な深淵に 引きずり込まれる様に感じる。罠にはまってしまうのだ。聖書の語っている世界とおおよそ かけ離れた世界で生きている自分だと思ってしまう。

しかし……そんなときにまたひとつの 御言葉が返ってくる。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやる ことのできないような かたではない。」(へブル4:15口語)わたしたちの神様は、鬼のような顔しているだろう か。いつでもバチを与えるように…。わたしたちの神様は、雲の上で杖でも持ってわたしたち を見ているだろうか。傍観者のように…。

そうじゃなかった。まったく違ったのだ。人と共に 生活をし、痛みを知り、弱さを知り、苦しみを負い、人に捨てられ、侮られ、病を知り、悲し みをになった方なのだ。罪を犯した人に「わたしもあなたを罰しない」言って、その罪を自ら が負った方なのだ。共に生き、共に泣き、共に喜んで下さる。お高くなんてとまっていない。 すぐそばに、いや、心の中にいてくださるのだ。

だからどこにいようと、どこに行こうと、何 があろうと安心なのである。



1999年8月29日

主に仕える共同体を目指して

牧師 犬塚 修

キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。兵役に服し ている者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとし ます。 (第二テモテ2:1〜3)

指揮官の命令に従い、自分の命さえも惜しまない立派な兵士は、その国の宝です。国の 運命はどんな兵士がいるかで決定したといいます。

ダビデは勇敢で自己犠牲の精神をも った戦士たちを多く抱えていました。故に、イスラエルは「神を信じる自立した国」として 他国に畏れられました。キリストの兵士は主に仕えることに最高の栄誉と恵みを感じます。 私たちの感心はいかに主に誠実に従うかにかかっています。それを目指すと、心に喜びが きます。

江戸時代の肥前(佐賀)には「葉隠れ」という武士道に関しての書物がありました が、ここに「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉があります。これを 軍国主義的に解釈するのでなく、神の国のためにいかに生き、死ぬかに焦点を絞りますと、 これはすばらしい人生観と感じられてなりません。

私たちにとり、主と生死を共にすること は永遠の命に至る恵みの道なのです。 「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは 一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制 します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得る ために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つ ような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に 宣教しておきながら、自分の方が失格者となってしまわないためです」(第二コリント2:24〜27) 天国の賞を求めて歩きたいものです。


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