巻頭言
1998年8月


1998年8月 9日

礼拝への招き

牧師 犬塚 修

安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 (申命記5:12)

今月は「礼拝と恩寵」月間です。「恩寵」は主からの招きに基づきます。そして、私たちは、 招きに応じることによって、恩寵を受けることができます。主の招きに応えて、原始教会の 人々は「心を一つにして」集会を守りました。そして、聖霊は、その一致した交わりの中に すばらしい恵みの出来事を与えてくださいました。

さて、今週から、八つの面より「主の招き」 について共に考えていきたいと願っています。本日は「礼拝への招き」です。「礼拝」とは、 私たちの生命源そのものです。礼拝を守っていくと、聖霊の著しい祝福が伴いますが、礼拝 を疎かにすると、何かがおかしくなっていきます。礼拝を厳守していくことがあらゆる祝福の 源なのです。しかし、このことは決して易しいことではありません。主は私たちのために十字 架で高価な犠牲を払われました。

では、私たちはどんな犠牲を主のために払ってきたでしょう か。主はご自分を喜ばせることをなさらず、私たちのために命さえも失われました。その愛の 深さを知らされた時、私は感動し、少々の犠牲を払うことも当然と思うようになりました。私 たちは、礼拝のために何かを切り捨てるという痛みや苦しみの中でこそ、主の恩寵が溢れ出る ことを、経験いたしましす。すべての祝福は礼拝から始まります。礼拝を生活の最優先にすえ た生活設計は、極めて健康です。主を喜ぶ生き方とは、礼拝を守っていくことです。この日は 私たちのものではなく、主のもの、主の日です。また、日々の歩みの中でも、主を讃美し、礼 拝の心をもって生きていきましょう。



1998年8月16日

ようこそ祈り会へ

牧師 犬塚 修

安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合 わせて熱心に祈っていた。(使徒言行録1:14)

原始教会がすばらしい命に輝いていたのはなぜでしょうか。
それは祈祷会の充実にありました。「吹けば飛ぶような将棋の駒」のように貧しく 小さな群でしかなかった彼らが驚くべきみ業を行っていったのは、ひとえに祈祷に その要因があったのです。

ペトロが逮捕され、死が間近になった時、彼らは集まり祈り始めました。「ペトロは牢 に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」 (同12:5)そして、奇跡が起こり、ペトロは無事救出されました。いかに「無学な普通 の人」(同4:13)であっても、彼らは祈りによって、「神の業を担う人」へと変えられた のです。祈りによって、不可能の重い扉は開かれ、悪魔の奸計(かんけい)は封じられ、 救いのみ業が進展して行くのです。

私たちの教会が主に用いられるか否かは祈祷会にかかっていると行っても過言ではありません。 なぜ私たちは集まり、共に祈り合うのでしょうか。それは「心を一つとするため」です。 同じ方向性を持ち、同じ使命感、同じ信仰、同じ重荷を持って同労者、主の兵士として 立ち上がるのです。主は祈祷会において私たちの心を一つとされます。ここにおいて教 会は真に整えられて行きます。

祈祷会には、主の油が潤っていて、私たちの人生をも豊かなものとするのです。 祈りは主との対話です。共に手に手をとって祈る時、天の窓は開かれていき、そ こに主の幻を見ることでしょう。今、学んでいるエゼキエルのようにです。



1998年8月23日

伝道への招き

牧師 犬塚 修

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)

伝道とは、この世に生きる私たちのすばらしい使命であります。親しい友が、私たちに福音を伝えてくれたことによって、永遠の命を得ることができました。

私も、生まれて初めてキリスト教会に足を踏み入れることができたのは、一人の友の導きでした。当時、心の悩みや空しさで自暴自棄となり、ニヒルな少年であった私を、熱心に誘ってくれた一人の友がいてくれたお陰で私は、救われました。もしあの時、私に声をかけてくれなかったならば、私はおそらく、絶望と悲しみの中で生ける屍となっていたことでしょう。

現代人も同じような魂の危機に直面し、不安におびえています。21世紀は「モノ」の時代ではなく、「心」の時代となるでしょう。本物の心の喜びと平安を与え得るのは、イエス様の福音以外にありません。疲れ果て無気力になっている時代の唯中で、熱心にイエス様を語り伝えることは、何とすばらしいことでしょう。

入信して31年になりますが、私はその友の導きを決して忘れることはありません。伝道することは、人の命を救うということです。それは決して難しいことではありません。なぜなら、伝道する時、イエス様も共にあり、働いてくださるからです。「主は彼らと共に働き」「イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。」(マルコ16:20)

誠に伝道は人生において最高にドラマチックな喜びのみわざなのです。



1998年8月30日

奉仕への招き

牧師 犬塚 修

『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(マタイ25:21)

夏期休暇の折、ある教会の礼拝に出かけました。初対面の時は少し緊張するものですが、 私たち一家を出迎えて下さったその教会は、実に暖かいものでした。私たちのために、 ある壮年の人が頭を下げてきれいにスリッパを並べて下さる謙虚さにイエス様のお姿 を見る思いもいたしました。また、一人一人がにこやかでいつも主を讃美している姿 にも心打たれましたが、最も感動したのは、教会堂が実に美しく掃除されていて、 どれだけ多くの人々が掃除にたずさわっておられるか、また、その人々が心を 込めて、喜んでその業をされていることが、分かりました。確かにその教会は光 輝く何かを感じさせてくれました。

このように、初めての人を霊的な世界へと導き上げるのは目に見えない所での隠れた 奉仕です。イエス様が墓に葬られていた時、女性たちは、香料を塗るために訪れました。 奉仕は、それと似ています。それは、主イエス様への愛の表現なのです。ですから、 一人でも多くの人々が、教会を美しくするために奉仕を黙々となし続けることは、 実に美しく崇高な行為なのです。

小事に忠実な人は大事にも忠実なのです。隠れた所において、ジッと見つめていて 下さる天の父はこのような誠実な奉仕者を求めておられます。そして、一人一人の 汗は、ナルドの香油のようにかぐわしいものへと変えられていくのです。 天に宝を積む生き方を貫きたいものであります。

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