巻頭言
2023年8月


2023年8月6日

「それでもなお、生きる者として」

犬塚 契牧師

 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」…主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。  <創世記3章より>

 食べてはならぬという木が植えられてあり、それを食べると神のようになれるという誘惑に抗えなかった人のはなし。自分を神とする、自分を中心とする、それが実となってあるのなら、きっと食べ続けているのだと思っています。この時から人類に原罪が入り込んだという説明は、難しすぎます。ここに罪の原形があると言われれば、その通りだと実感します。神様の役は大変であり、できるわけもないのに憑りつかれたようにそこに拘泥します。神への祈りは、そこから人を解放してくれるでしょうか。そう願います。▲人の堕落後…神の姿は見えませんが、人を探す足音は聞こえます。神は、探される神でした。「どこにいるのか」。まだ何も言われてはいませんが、足音だけで人は隠れてしまいます。「…恐ろしくなり、隠れております。」神によって、否定されるのだという感覚を持ち合わせてしまいました。誰が立ち得ようか…その通りです。聖書の最初をめくり、自分の歩みを振り返り、ごまかしなく、静かに目を開けば、立っているところは同じところなのでしょう。しかし、話は続いていました。神は皮の衣を作って着せられました。それでもなお生きることへの促し、神からの肯定がありました。



2023年8月13日

「カインの罪」

犬塚 契牧師

アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  <創世記4章1‐12節>

 最初の殺人事件が、聖書をめくり始めて4ページに登場します。早っ。カインとアベルの兄弟間での出来事でした。かつては、その発端は、「神のえこひいき」だと理解していました。主はアベルの献げ物に目を留められ、カインのそれには目を留められなかったという記述がありますから。牧羊と農耕には、劣位と優位があったようで、この事件の背景の一つになっています。安定した農耕に従事するカインは、優位のはずでした。しかし、「目を留められなかった」という理不尽があります。これは神のひいきでなく、人生の逆風を今のカインは生きていたという表現でしょう。献げものに優劣があったわけでもないと思います。人が生きるところには、順風も逆風も理不尽も不可解もミステリーも起こるものでしょう。因果では説明できないような、説明してはならないようなこともあるでしょう。今、カインはそこを生きています。しかし、「劣位」なるはずのアベルの芝は余計に青く見えました。なぜお前が…なぜお前なのだ…という思いは、言葉の一切を排除し、暴力に傾いてしまいました。ここにアベルの言葉は一言も残されていません。▲「どうして怒るのか」という主の一言は叱責と読んでいました。今は、苦しむ人に対話を求める呼びかけに聞こえています。 



2023年8月20日

「神の憐れみを受けて」

犬塚 契牧師

その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。…「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。…主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。<創世記4章後半>

 カインがアベルを殺め、その復讐を恐れるようになった時、神は語ります。「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」(口語訳)。なお覆われ、守られる姿があります。「それはお前の責任だ」という自己責任が私たちの持つ強烈な常ですが、それが超えられています。その後、4章は系図を綴り、そこに音楽、文化、芸術、技術(青銅、鉄)が発展していく様子を描きます。そして、レメクが妻たちに聞かせた77倍の仕返しの歌へ続きます。それは朗々と力強く歌われるに反して、自分で防衛、復讐するしかない人間の哀しさを表しています。そして、その後に殺されたアベルの代わりにセトがアダムに授けられたことを系図は伝えます。4章の最後は、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」で閉じられます。事実で言えば、モーセを待たねばならないことでしょう。しかし、ここに入れられなければ、人の歩みは、ままならぬのです。▲しっちゃかめっちゃかな4章でした。兄弟間の殺人、人間の文化、技術の進展と比例するかのような傲慢、復讐の宣言…しかし、そんな哀しさの裏側に神の言葉かけがあり、子どもたち生まれ、なお贖われ続ける様子があります。続きを生きています。



2023年8月27日

「洪水の予告」

犬塚 修牧師

主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。    <創世記6章>

 ノアは「慰め・安息・休息」の意味である。悪逆非道を繰り返す世代の中にあって、ノアは一心に主に従う稀有な人物であった。「ノアは主の好意を得た」(8節)の言葉は原語では「主の目の中に恵みを発見した」という意味である。ノアが常に、主のみ顔近くにいて、主の息遣いさえも感じて生きていたのである、「無垢」とは、「純粋・非の打ち所のない」人格である。それは「主に罪が赦されて生きる」人の事である。▲ノアに至るまで………5章には、アダムからノアまでの系図が記されている。一見、無味乾燥な人名の羅列にしか見えないが、実は、深い神の救いの計画が、暗示されている。一人一人を調べていくと、一つ明確なメッセージが隠されている。それは「人間は弱い。しかし、輝きに満ちた神は、自ら下り、ご自身を捧げものとし、死と裁きを負い、新しい命に復活し、苦しむ人々を慰め(ノア)られた」というものである。▲ノアの箱舟………この巨大な箱舟は、現代のタンカーとほとんど変わらない。縦・横・高さのサイズは30・5:3であり、これは黄金比であり、最も沈みにくい形を保っている。この箱舟はイエス・キリストの予型である。イエス様の中に生きる人の人生は不沈である。たとえ、死の大波が押し寄せようとも。 


 




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