巻頭言
2022年8月


2022年8月7日

「愛されている子ども」

犬塚 契牧師

 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。…しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」     <エフェソの信徒への手紙6−10節>

 「♪ひかり、ひかり、わたくしたちは、ひかりのこども♪」教会学校でよくよく 賛美していました。「光の子」っていうのは、小学生までの専売特許のイメージがあって、幼稚園の名前だったり、暗唱聖句のカードだったり、子ども伝道のトラクトになったり…。大人なるとすねに傷がつき、こんなものかの諦観がうまれ、純粋さがにごり、ずるくもなって、なんだか「ひかりの子」って歌うのがはばかられるようなことがあるでしょうか。▲先週、秋葉原事件の死刑囚の死刑が執行されました。最後まで、関わられたお一人が、その真の動機に近づけなかったと書いていました。また、歌舞伎町のビルから子どもを落した母親が拘留中に命を絶ったことを知りました。深く病んだ世界の中で、さらに奥に追いやられた心の闇を思います。取り囲んだ状況が同じであれば、自分だけは違う選択をしたと胸をはれる人はいるでしょうか。神様、長調で明るく光の子を歌えないのです。▲マザーテレサの没後に出版された指導司祭への私的書簡があります。「わたくしは暗闇を愛するようになった。」聖人の内にあった暗闇が隠されず書かれています。解説がありました。「それに対する人間的処方はありません。それはただ神の隠れた現存と、人類の救霊のために罪深い世界の重荷を担って苦しまれたイエスとの一致の確信にあるだけです」。(マザーテレサ来てわたしの光になりなさい!)▲どの聖人にも闇があり、信仰者の闇があります。それでも、井戸の底、深いトンネル、地下へのらせん階段を一条の光を頼りに降り得る幸いを信じたいと思います。▲かつて、旧約聖書最大のスキャンダルを背景にダビデは告白しました。「わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」』詩編139編



2022年8月14日

「祈りは、何か意味があるのか」

犬塚 契牧師

 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。…わたしのためにも祈ってください。…祈ってください。  <エフェソの信徒への手紙6章10−20節

 もう何年も前の8月6日、熱海で釣りをしていると市内放送があって、原爆の被災を覚えての黙祷のアナウンスでした。1分間、騒々しかった釣り場に静寂が生まれ、波の音だけが残る中でそれぞれが祈りを捧げていました。中世では教会から鳴る鐘の音に人々は立ち止まり、定められた祈りを口にしました。170年前、ミレーは「晩鐘」というジャガイモ畑で祈る農民夫婦の絵を描きました。今、2022年の平塚に鐘は鳴らないので、いつまでも立ち止まることなく動き続けています。通信手段が、郵送、FAX、E-mailと変化する中で、即座に返信することが求められて、ますます一息つく間がなくなってしまいました。時間不足、休息不足、運動不足、余暇不足…すでに滞っているたくさんの事を考えれば、祈りのスペースも神の入るゆとりもありません。「能率」というのが、現代の霊的な病だと聞いて、納得しています。だから、こんなにも焦燥感が募るのかと。▲エフェソ書の最後の6章にパウロは祈りへの期待を繰り返し書いています。彼はかつてこう書いていました。「…しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(Uコリ11)なるほど、しっちゃかめっちゃかです。しかし、ゆえに人は祈りによって神であることをやめ、神を神とし、自分の位置を確認し、見えるところを超えて、見えないものにも目を注ぐ。そんな出来事が起こり得るでしょうか。詩編の記者は「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:10口語訳)と歌いました。もう神はやめたらどうかと勧められています。人は休みが必要で、休んでよいようです。祈りは、聞かれているかどうか分からない人間のひとり言ではありません。気休めの自己暗示でもありません。神に委ねる作業です。 



2022年8月21日

「あたりまえの未来が奪われている」

草島 豊牧師

 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 <マルコによる福音書 15章25?39節>

 8/21の特別分級のテーマは「私にとっての平和」そして「私は平和のために何ができるか」。戦争だけでなく、DV、パワハラも暴力であり、暴力があると平和とは言えない。暴力は人々の「あたりまえの未来」を奪う。差別、経済格差、公害、環境問題も暴力。私たちは知らずに暴力を受けているかもしれないし、また暴力に加担しているかもしれない。まず暴力に気づくことが大切。DV、パワハラ、戦争といった暴力は、避ける、法で裁く、対話するといった方法があるが、差別、格差などは、社会の変革や人々の連帯が必要。▲「現実的」という言葉に注意したい。本当に現実的なのか、また「現実的」方法の影に犠牲になる人々がいないか。また暴力に対してもっと大きな力に頼ろうとしていないか。▲ローマ兵が「本当にこの人は神の子だった」と信仰告白したのは、奇跡を見てではない。ローマ兵はイエス処刑を見て信仰告白した。私は十字架=絶望、復活=希望と思っていた。しかし十字架こそ神のメッセージであり、復活は十字架が神の意志だと示すことではないか。▲イエスへ「降りてこい」と言うのは十字架刑の暴力に対して力を示して解決しろ、という考え。しかしイエスは力に対して力で対抗しなかった。まるで力を否定したかのように。それはイエスのガリラヤでの活動の姿と繋がる。弱くされた人々のところへ行き寄り添ったイエス。▲イエスは、力でねじ伏せる、力で変える、力を集めるのではなく、無力の姿で、一人ひとりの心に触れ、力を分け与えた。イエスは決して、大義のために犠牲になれとは言わなかった。むしろ逆。神は人間の元まで降りたのに、人は神の力を求め、天にあがろうとする。しかし神とまみえるのはこの地上。神が人を弱く創造されたのは、力を寄せ、互いに助け合うため。▲身の回りで誰かが犠牲になっていないか。暴力をどう減らすか、無くすか、祈りながら何ができるか、考えてみたい。



2022年8月28日

「それでも神様に」

犬塚 契牧師

 王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるように定め、三年間養成してから自分に仕えさせることにした。…侍従長は彼らの名前を変えて、ダニエルをベルテシャツァル、ハナンヤをシャドラク、ミシャエルをメシャク、アザルヤをアベド・ネゴと呼んだ。          <ダニエル書 1章>  平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 <マタイによる福音書5章9節>

 「カポー」と呼ばれる特別待遇のユダヤ人収容者の部屋をアウシュビッツで見たことがあります。時にナチス以上に残酷だった彼らのベッドは、バラックの板張りの寝床とは違っていました。綺麗に折りたたまれた毛布と備え付けられた家具の様子を忘れることができません。私だったらどうしただろうかと自問します。あまりに空腹で飢え、極寒に凍えていれば、何とか生き延びるべく特権を得、得たならば手放したくないと私は考えたでしょう。極限で、正しくあれた自信がありません。それでも、本当はどこで誰と繋がっていたいのかと心を探っています。連帯したい人たちを思い浮かべています。▲バビロン捕囚期に少年ダニエルたちは、同胞と引き離され、神のごとくふるまうネブカドネツァル王の庇護と特権を享受できる立場にありましたが、彼らが求めたのは、水といささかの野菜でした。心はバビロンでなく、苦しみの中にある同胞と繋がっていたようです。▲2020年、コロナが報じられた最初、人が集まるところは○○警察の標的となり、張り紙と嫌がらせを受けていました。教会も無縁でないと思い、いずれ石でも飛んでくるろうと、随分と気を揉んでいました。渦中、それでも連帯していたいのは、「コドモアツメルナ!」と貼られた駄菓子屋のおばあちゃんの心だと思いました。▲上記、マタイ5章の短い1節。「平和を実現する人」とは、かつて平和活動を推進する団体や平和賞をもらうような人たちを想像していました。10数年前、沖縄で語り部がその夜も涙を流しながら証言するのを聞いて、決して固まらない傷口と知らせるために何度も剥がし続けるかさぶたの痛みに気づかされました。▲マタイ5章の背景。ローマ帝国は、反旗を翻したとしてガリラヤを制圧し、武器を取ることの出来る男は殺され、嘆く妻たちは押さえつけられ、子どもたちも見せしめで刺されるような中、平和を作るどころか、復讐もままならず、仕返しもできない人たちがいて、それがあろうことか、幸いと言われる…。主イエスのこんな言葉は、聴衆の激怒を誘ったかも知れません。聞いていたものは、落ち着かず大声で反対もしたでしょう。それでも、静かに聞き直します。ボロボロが慰められる言葉は「わがいとし子」と呼ばれる神の招きにあると聞きたいのです。 


 




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