巻頭言
2021年8月


2021年8月1日

「主が来られるときまで」

犬塚 契牧師

 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。…わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。              <ヤコブの手紙 5章7-20節>

 弁証的でもなく、教理的でもなく、護教的でもなく、ヤコブ書は2000年前の信仰者たちの生身そのままに記されています。目をつぶれば、そこに主イエスがおられるかのように信じ、待ち、期待し、その場所を生き抜いているように感じます。ヤコブ書に散らばるテーマの焦点を十分に捉えたとは思えませんが、それでも難解な古典に触れたのではなく、今もなお開けばインクの匂いが残るような新鮮さを知らされています。▲「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。」聖書の注解者たちは、この初期の教会が主イエスの再び来られることを切実に感じていたことに触れています。そして、パウロの初期の手紙またそうであると。しかし、結局彼らの世代に再臨は叶わず、子ども世代、孫の世代も過ぎていきました。だから1世紀後半に書かれた手紙は、再臨待望の記述は影を潜め、「共にいる主イエス」へと語り方が変わっていったと注解を読みました。そして、結局、2000年の時を経ています。裏切られたと理解してよいのでしょうか。ふと置かれていたであろう厳しさを想像しながら思うのです。彼らの再臨の期待は、自動的にスケジュールされた期日のようなものではなかったと思います。スマートフォンに予定を記録しておけば、忘れていても30分前にアラームが教えてくれます。ミーティングも締め切りも誕生日も教えてくれます。再臨の待望とは、忘れていても、時がきたら作動する期待ではなく、いつ何時も神のご支配の中にあるという希望であったのだと思います。そこに人の操作の余地はありません。「天と地を指して」どんなに誓いをしても、操作し得ない世界です。生まれる日も召される日も委ねる以外にない神の領域です。「「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1章)▲良い時代があり、悲しい時代があります。楽しい時期があり、涙の時期があります。それらをどこか引き受けさせてもらって、人生を続けます。然りは、然り、否は否。主の御名はほめたたえられよ。



2021年8月8日

「エゼキエルの召命」

犬塚 契牧師

 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。 <エゼキエル書2章-3章3節>

 「だから、ぼくは何とも言えない。小さい子の焼けた皮膚やはげた頭―どうする?ただ向き合うだけだと思う。子供たちは本当に深く傷ついていて、とても怖がっていて、おそらく死にかけている。みんな悲嘆にくれている。向き合うんだ。そしてその後どうなるかみるんだ。次に何をするか見るんだ。ぼくはポップコーンを持って回って歩くことにした。子供が泣いていたらポップコーンで涙をぬぐって、ぼくの口や、その子の口に放りこむ。ぼくたちは一緒に座って涙を食べる。」(ラム・ダス、Pゴールマン)▲小児病棟のボランティアで出かけた先にみた涙の現実とそれを受け止めてユーモアにすら変える子どもたち…。祭司エゼキエルが預言者として立てられたのはバビロン捕囚で移住させられてから5年後のことでした。神殿から遠く離れた辺境の地で見た幻(1章)は、この場所をも見ておられる神様の熱意でした。しかし、時に自分の物差しや力量を超える壮大さは、疲労感と委縮と結びついてしまうものです。エゼキエルは、立ちすくみ、茫然自失のようです。そんな彼に神様は語ります。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」エゼキエルの召命と言われる所以です。その後を彼は書きます。「…霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。」きっとそういうものでしょう。その立たされた預言者エゼキエルに神様の言葉が預けられていきます。しかし、その言葉は、「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」でした。また、それを食べるようにと命じられます。意外なことに「それは蜜のように口に甘」いものでした。そんなことがあるでしょうか。涙は、多少しょっぱく、苦しみは苦いものだと思っていました。▲「…向き合うんだ。そしてその後どうなるかみるんだ」。私たちの生涯には、きっと私たち自身と神様しか知らない宿題があるのだと思います。哀しみと呻きと嘆きの蜜のように甘い道。すでにそんな道を辿っているのだと思います。 



2021年8月15日

「人の子よ、見よ」

市川 牧人 神学生

 そこで彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。あなたは、これより更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。 <エゼキエル書8章15節>

 バビロン捕囚の時代、エゼキエルは捕囚地でささやかながらも預言活動を続けなんとか自分たちの宗教生活を守り続けていました。しかし、ある日、エゼキエルは幻の中で故郷エルサレムへと連れていかれそこで行われている忌まわしい偶像崇拝を目の当たりにします。数年前までは共に主への礼拝を行っていた、顔も見知っている同胞たちがこぞって主を裏切り罪を犯しているのです。そんな姿にエゼキエルは嘆き悲しんだのでしょう。「どうしてこうなってしまったのか」「もしかしたらこんなことがあってしょうがなくいやっているんだ」その背信の姿ゆえに「けしからん」と一蹴することはエゼキエルにはできなかったのではないでしょうか。どこまでも同情してしまったのではないでしょうか。そのエゼキエルの葛藤する姿はエゼキエル書全体を通して苦悶する、まさに主なる神のお姿とも重なります。以下の箇所では、裁きの言葉を発しながらも愛するご自分の民のすぐそばから離れない主のお姿が描かれています。 そこには、激怒を起こさせる像が収められていた。そこには、かつてわたしが平野で見た有様と同じような、イスラエルの神の栄光があった。(エゼキエル8章3節〜4節) 一見不思議な箇所です。なぜ激怒を起こさせる像がある、まさにその場所に神の栄光があるのでしょうか。それは最後まで同胞に同情するエゼキエルのように、どこまでも愛する民イスラエルを諦めきれない主のご性質ゆえなのです。「人の子よ、見よ」と主はエゼキエルに自分と同じところに立ち、同じように苦しみ、同じように同情の、憐れみの思いを抱いてほしいと願います。主の愛は「契約関係における忠誠心(ヘセド)」です。契約は破棄されることはありません。主のイスラエルの民への愛は決して破棄されず何度でも主は共に嘆き、苦しみ、同情し哀れんでくださいます。私たちはその主のお姿を何よりも、エゼキエルの時代から約600年後、主イエスのお姿を通して知っています。主イエスは腐敗したエルサレムのために涙を流されました。そこで流された主イエスの涙は私たちにも向けられた水脈として流れ続けているのです。エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。(ルカ19章41節〜42節)



2021年8月22日

『平和がないのに「平和だ」と言う』

草島 豊牧師

平和がないのに「平和だ」と言う。 <エゼキエル書13章1-23節>

 平和は戦争や目に見える暴力がないことだけではない。一見華やかな世界でも誰かの犠牲の上であるなら平和ではない。また神はそれを許されない。旧約聖書に描かれる神は怖いと感じるかもしれない。しかし申命記10:17‐19や出エジプト記20:2‐17(十戒)にはあたたかい姿が示されている。イスラエルの偶像礼拝はこの時代、経済繁栄と軍事的安定と密接であった。経済力は軍事力のために必要だった。他国との貿易が経済繁栄をもたらすが同時に他国の神を受け入れることにつながった。さらに当時イスラエルはエジプト、アッシリア、バビロニアといった強大な国に挟まれより強い国の側につくことによって生き抜こうとした。強い国にすりより貢物を送る。強い国は自分に従っている証拠として自分の国の神を礼拝させた。経済力に支えられた軍事力と対外政策は一見必要のようにみえる。しかしその背景に犠牲になる民衆があった。神の怒りは、この犠牲になる人々への慈しみのまなざしだ。  新型コロナ下で「平和でなかった」私たちの現実を思い知った。職を失った派遣労働者。非正規労働者、外国人労働者。こういった犠牲の上の平安だった。エゼキエルは神の言葉の中に、変わらない神の意志をみた。神はいる、ともにいると。指導者たちが力と安定を求める中でないがしろにされた「わたしの民」を救おうとする神のあたたかいまなざしは昔も今も変わらない。いま私たちは当たり前に過ごせていた昔に戻りたいと願う。しかし、それは誰かの犠牲で成り立っていた昔。わたしたちは闇が去り光が現れることを求める。しかし光は闇の中で会える。今こそ神のメッセージを聴けるのではないか。平和でないありさまから目を背けず、神のまなざしに心を寄せ、神の声に耳をすませるとき、神のメッセージが心に響いてくると信じる。



2021年8月29日

「必ず、生きる」

犬塚 修牧師

    <エゼキエル書18章21ー32節>

 




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