巻頭言
2019年8月


2019年8月4日

「第4話「チャンス」」

草島 豊協力牧師

「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。 <創世記40章1-23節 うち8節>

ヨセフ物語のストーリーはあたかも昼のドラマのよう。奴隷としてエジプトに売られたヨセフが神に導かれてエジプトの高官になるという波瀾万丈の人生ドラマ。さらに兄弟、家族の葛藤と和解の物語が織り込まれている。わたしたちはまず物語としてどきどきハラハラしながら読んで楽しみたい。そして私たち自身の人生ドラマも楽しみたいが、どうだろう。 ヨセフは後に兄弟達と再会し和解する。そのときエジプトに売られてきたのも神の働きだと語る。ヨセフ物語ではハッピーエンドが待っているが私たちの人生ドラマはそううまくいくとは思えない。うまくいきそうでいかない。あたかも今日の箇所で終わったままとさえ思う。困難の中で私たちはこれも神の導き、と告白できるだろうか。しかし神の働きは後になって分かるものであり、納得し受け入れられたときに初めて言えるのではないか。困難の渦中で神の働きが信じられなくてもかまわない。受け入れられるときに言えればよい。ヨセフは「夢解きは神がなさること」と語った。必要があれば、神が与えて下さる、と。この世界を神がつくったのなら、この私もつくったのだから、この私にどんな神の働きがあるのか、私の物語をあきらめずに見ていきたい。  一見長くみえる人生ドラマ、それは小さな場面の積み重ねでできている。長いドラマの先がどうなるかは分からない。将来への不安や恐れもある。しかしそんな中で小さな一つひとつの場面、小さな出会い、小さな励ましによって私は命を与えられてきた。ちっぽけな一人一人が生かされて、ここに集められている。それこそ奇跡であり、神が働いているのではないか。



2019年8月11日

「時を知る人―待つことは愛すること」

犬塚 契牧師

二年の後、ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、…ファラオはヨセフに言った。「わたしは夢を見たのだが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが。」ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」  <創世記41章1-36節>

 給仕役の夢を解き明かし、牢からの解放を切望したヨセフの願いは、あっけなく忘れられて2年の時が流れました。今日か明日かと期待した彼には、実に長い時間だったと思います。▲ヨセフ物語の背後に「時を知る」ことを考えさせられています。幼い時、ねだって買ってもらったカブトムシのさなぎの羽化が待ちきれず、取り出してとても後悔したことがあります。なんだか、歩みを振り返って、時が待てないのです。時を知らないのです。だから乱暴に、焦りの中で、生きてしまいます。人との関係においても、無理やり心を開こうとして失敗したことがたくさんあります。なかなかこじ開けられないことの前で、こんなにも下手にでているのにと、急に怒る傲慢を持っています。時を知らないのです。▲きっと、時を知るとは、時を支配される方を知る、神の時を待つということに思います。そして、待つとは、歯を食いしばって我慢するとか、じっと忍耐するのだということ以上に、待つとは神の愛をどこか信じることであり、ならば、待つとは愛することなのでしょう。ヨセフの待たされた2年間は不毛で月日でなく、愛することを知る時であったと読んでよいでしょうか。▲2年後、ファラオの前に引き出されたヨセフは、エジプト中のすべての魔術師・賢者が7年後のエジプトの様に恐ろしくなり、しり込みした夢を聞いてもなお、「神がファラオの幸いを告げられる」と解き明かしました。幸いとは、聖書の言語で「シャローム」であり、神のおられる平和です。



2019年8月18日

「平和を生きる」

犬塚 契牧師

「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」…ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」 <創世記41章37〜57節>

人と人のつながりの大切さが言われます。共通の興味や好意だけでなく、同情や共感がその間にあって、接着剤のように機能しています。しかし、随分弱いのではないでしょうか。張り直しが可能な付箋程度のそれしか持ち合わせていない気がします。多少のできごとで早々に離れてしまう身勝手さを無視するわけにはいきません。そして、その弱さにどこか気づいて恐れています。おそらく皆強くありすぎるのです。▲エジプト文明の中で、イスラエルの奴隷ヨセフが成功していく話は、口伝で聞く痛快なルーツの回顧であったでしょう。エジプトでの名、“ツァフェナト・パネア”とは、「神は語り、彼は生きる」であり、彼はエジプトに認められ、受け入れられたのです。これ以上の成功はあり得ません。しかし、エジプトの名をもらったヨセフは、二人の息子に母国語で子に名をつけました。マナセとエフライム、「忘れる」と「悩みの地で増やす」。それでは、名を呼ぶごとに忘れ得ぬ痛みが彷彿するではありませんか。▲エジプトが豊作の中、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめても、ヨセフはなお渇いています。豊作、飢饉に揺れる大国の動向にすれば、かすんでもおかしくもないヨセフの魂の置き場が記されます。▲ヨセフへのファラオの評価である「神の霊が宿っている人」とは、ガラテヤ書4章の「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」ことと重なって聞こえます。弱く風前に覚えるつながりは、「アッバ父よ」という共通の足場にあって、ようやく固まり始めるのでしょう。あなたも「アッバ」と叫ぶ者なのですか、私も「アッバ父よ」と叫ぶ者なのです。



2019年8月25日

「新たなページを開くため、苦い根を断ち、神の側に立つ」

小平公憲神学生

この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。 <創世記44章18-34節>

神は私達のどこを見ていらっしゃると思いますか。心の中を見ていらっしゃるのです。ここに登場するヨセフ、ユダ、そしてヤコブも私達と同じ人としての感情を持っています。時として人の感情は嫉妬、殺意、策略、虚偽などの自己中心に支配されます。しかも陰険です。この感情が絡み合い、苦い根となって心の中に存在しています。この苦い根こそが、すべての問題を引き起こす罪なのです。真珠湾攻撃の時「トラトラトラ」を打電したことで有名な淵田美津雄は東京裁判の被告として獄中にいました。彼の心はアメリカに対する反感と憎悪で煮えたぎって居ました。彼はアメリカ軍の日本人捕虜収容所での取り扱いを聞きました。そしてマーガレットというお嬢さんの献身的な行為を知ります。その理由を尋ねたところ「私の両親は日本軍に殺されました。だから献身しているのです」淵田は「それでは話が逆さまだ」と叫びます。マーガレットの両親は日本に派遣された宣教師夫妻だったのです。両親は殺される前に30分祈る時間を与えられました。両親は日本の為に祈ったに違いありません。マーガレットは両親の遺志を叶えるため憎しみを乗り越えたのです。この話は淵田の心を打ちました。淵田はクリスチャンになり伝道師にまでなったのです。あの攻撃隊長が聖書を携え真珠湾に戻ってきたことは世界のトップニュースになりました。淵田はその後伝道師として多くの人を救ったのです。もしマーガレットが日本人を許さなかったなら、この話の1ページは開かれなかったのです。そして今も神様は私達が苦い根を断ち、神の側に立つのを待っていらっしゃるのです。




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