巻頭言
2018年8月


2018年8月5日

「信仰のないわたしを」

犬塚 契牧師

その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」…イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。 <マルコによる福音書 9章14-29節>

イエスキリストが3人の弟子を連れて山に登っている間、ふもとの町ではイザコザが起きていました。子どもを苦しめる霊を弟子たちが追い出せないことから、議論が始まりました。律法学者と多くのギャラリーが、9人の弟子たちが力を失った原因を問い、そして、かつての悪霊の追い出しもまたインチキかと迫っていたのだと思います。弟子たちは、理由は分からずともきっと弁明したでしょう。その傍らで、子どもを連れた父親が暗澹たる思いの中でたたずんでいました。そして、そこに主イエスが到着します。「何を議論しているのか」。議論は、対話と違います。勝ち負けが決められ、どちらかが否定されます。ふもとに満ちた空気は良いものではありませんでした。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。…」主イエスキリストの目に映っていたものはなんのだろうと思います。8章の後半以降、十字架へ道が色濃く刻まれていきます。信仰なく人々が足を引っ張り合いながら生きているように思えました。本当に弱った親子をいつの間にか遠ざけ、手に負えぬ自分たちの言い訳を繰り返しています。どこに信仰があるのか、どこに希望があるのか。信仰とは、この出来事から知るに、神に頼る以外には見出し得ない希望と言えるでしょう。癒しは必要なのか、この子どもの家族だけでなく、共同体全体でした。この子だけ癒されてもメデタシにはなりません。共同体の祈り(希望)の回復を主イエスは願われました。「この種のものは、祈りに…」。



2018年8月12日

「傍流に流れる恵み」

犬塚 契牧師

神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 <創世記21章9-21節>

21章前半は、いよいよのイサク誕生の記事があり、サラの喜びが溢れます。しかし、同じ章の後半は修羅場です。イサクが乳離れしたのは3歳くらいであったでしょう、そのイサクを10歳以上離れた女奴隷ハガルの子イシュマエルが「からかって」いるようにサラには見えました。そして、それはやがてイシュマエルとハガルがアブラハムの祝福を奪っていく道に続いているかのようでした。サラは笑う人から、一転、鬼へと変わり、ハガルを追い出します。アブラハムは二人の息子とその母たちの間で、非常に苦しみます。ハガルは悲しみのあまり生きることを放棄します。▲誰もがそれぞれに与えられた神の約束を疑う者となりました。約束への信頼よりも恐れが先に行き、人への疑心暗鬼と変わります。いい加減に堪忍袋の緒が切れた神の登場があるのでないかと思えます。自分たちで蒔いた種の結果、痛みの実を刈り取っています。神が怒らぬつもりなら、せめて沈黙で事の大きさを知らしめるのが神の知恵ある選択に思えます。▲神は、恵み忘れて鬼と化したサラを咎めはしません。やはり、人の心は捉え難く病んでいます。アブラハムの過去をほじくりはしません。「くるしまなくともよい」と言葉をかけます。ハガルの悲観を叱りはしません。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない」と慰めに徹します。▲フランス文学者の森有正の言葉を思います。「人は誰はばからず語ることのできる観念や思想や道徳と言ったところでは、真に神に会うことできないのです。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人は神に会うことはできないのです。」▲人のどん底を神は出会いの接点とされました。約束確認の場面と変えました。



2018年8月19日

「平和を生きる」

犬塚 契牧師

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し… <エフェソの信徒への手紙2章14-16節>

月月火水木金金と休みなく軍需工場で働き続け、「いのちとはわがものならず陛下のもの」と学校で教えられ、残ったのは膨大な死と闇のような悲しみで、結果として日本300万人、アジアで2000万人の人々が殺された戦争がありました。はるか太古の話ではなく、父や祖父、祖祖父の時代です。人は…、人類は…、私たちは…、私は、平和を作ること、平和を喜ぶことができませんでした。かつても今も、技術は殺めることへ使われ、力は奪うことへと繋がってしまいます。片隅で絶望を知る人、弱さを覚える人は、堪えきれずに涙を流します。神は、その痛みをご存知だと思います。「平和とは秩序の静けさである」(アウグスティヌス)とするならば、あの時代、神の望まれない無秩序の騒々しさが人々を狂わせてしまいました。そして、今日また騒々しさを拾って、ハウリングが聞こえてきます。どうか、静けさをいただきたいと思います。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14節)原文において、非常に強い言葉であり、宣言です。神の本音であるイエスキリストの存在は、創造の全世界にとって、決定的です。イエスキリストの十字架の出来事は、罪にある人をもう一度、神の前の秩序、静けさに戻します。そして、神の懐は、新しい人を作り上げます。自ずと敵意が栄養とされず、壁は壊され、新しい人は平和を生きます。



2018年8月26日

「今や、義の栄冠を受けるばかり」

犬塚 修牧師

神のみ前で…その出現とその御国とを思い、厳かに命じます。 <テモテへの手紙U 4章1-8節>

私達は日々、誰か、また何かの前で生きている。愛する人々や、不安がらせ、恐れさせているものの前で、生きている。その甚大な影響を受け、一喜一憂してしまう。自分の前にいる存在が、私達の心を決定的に左右する。私達にとって最も大切な事は、愛に満ちた創造主である神を、目前に置いて(強く意識して)生きる事である。それが平和と喜びを得る秘訣である。神以外のものに、心を奪われると、道を誤る危険性が増す。そして、心に自己過信、傲慢、支配欲、または絶望、自己嫌悪などが生まれる。私達は目に見えるものに支配されやすい一面がある。この世中心の考え方に身を任せてはならない。私達の過去・現在・将来は神の支配の中にある。過去は、主の十字架の救いによって、罪赦され、現在は、神の守りの中にあり、将来は、再臨を恋い焦がれるほどの神の恵みに包まれている。決して暗黒の支配の中にはないから、不安と恐れをかなぐり捨てる事である。私達の将来は義の栄冠が受ける事になっているのだから。「ここも神のみ国ならば」讃美歌90番)であるように、今の現実がいかに闇に包まれているかのよう見えても、そこにも、神の完全なご支配と介入がある事を信じたいものである。忍耐強く主を信じ続ける事である。▼「私はいけにえとして捧げられている」…パウロは自分自身の体を神に捧げられる御酒(ぶどう酒)と考えていた。汚れた自分の罪を取り除き、芳醇な酒として下さったのは、愛の主であると悟っていた。「捧げられる」とは、神の所有、神のお気に入り、貴い宝という意味である。キリスト者の人生は、淀んだ水たまりのようなものではなく、神に喜ばれたものである。たとえ、トラウマになる程の苦しい体験を味わったとしても、それでも父なる神のみ前に行き、それから思い切って、御父の愛の懐に飛び込む事である。御父は愛する子供である私達を抱きしめ、慰められる。「神は愛である」 それゆえに、私達は何事も恐れず、この世にあって、いかなる難敵とも戦う事ができる。スズメバチのような鋭い針をもった敵の大群の中にも、恐れなく飛び込み大勝利できる。イエスという完全な義の衣、甲冑、鎧を全身にまとっているからである。主の勝利が私達の先にある。




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