巻頭言
2017年8月


2017年8月6日

「慈愛を着なさい」

川口まな神学生

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」 <コロサイの信徒への手紙3章12節>

この箇所で書かれている同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容は、霊的な態度のことを指しています。身につけるとは、ギリシャ語では着るという意味があります。つまり今日はどのような服を着ようかと考えるように、霊的な態度を着ようかと考え、選択していく必要を聖書では語っています。この中で一番分りにくいのは、「慈愛」だと思います。慈愛をそのまま直訳すると、慈しみ愛することです。具体的に例をあげるとすれば、親が子どもを愛する愛ではないでしょうか。親は、子どもの良し悪しは関係なく無条件で愛します。その親の深い愛情こそが慈愛だと言えると思います。その慈愛を身に着けなさいと言っています。そのような慈愛を天の父なる神様が私たちに注いでくださったのです。その神様の慈愛を良く知ることができるのは、「放蕩息子」の例え話です。どんなに息子が親に逆らい、多くの罪を犯しても、父親の家に立ち返る時に、父親は、無条件で赦してくれたのです。それだけではありません。最上の着物、指輪、履物を与え、息子が帰ってきたことを喜び、大きなパーティーを開いたのです。神様は私たち1人1人をそのような慈愛で愛してくださっているのです。そして、神様はイエス様という独り子を通して、究極な慈愛を示してくださいました。自分の子どもを殺してまで私たちを愛されたのです。この慈愛を知る時に、今度はあなたも誰かに慈愛を持って愛することができるのです。慈愛を持って愛することは、必ず何らかの犠牲が伴います。それなので、自分の努力では限界があるのです。しかし、神様に霊的な態度「慈愛」を求める時に、神様は必ず与えてくださいます。神様が、あなたに「慈愛」を着させてくださるのです。


2017年8月13日

「幸福なるかな、平和ならしむる者」

犬塚 契牧師

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 <マタイによる福音書5章>

「平和ならしむる」働きをされておられる方々を思い出します。沖縄の地上戦で球飛び交う中を抜け、家族、友人たちを失った元ひめゆり学徒隊の話を聞きました。70年前を昨日、今日の出来事として話してくださる時、傷は癒えず、薄くできるかさぶたは、その都度はがされて、心の鮮血が噴き出し、涙が流れていました。痛みと悲しみと後悔と使命…平和を実現する人の姿は、人の手の業を超えて、畏れを知る神の子のようでした。語られる講壇の後ろに、その教会の年間聖句が掲げられていました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」▲これが最後の食事となる…大きな緊張があります。自分の死が近づいて来ていることをイエスキリストはご存じだったでしょう。宗教的指導者たちの殺意、策略渦巻くその膝元の地、首に掛けられた懸賞金、弟子が交わした引き渡しの約束…最後の晩餐が始まりました。メニューが変わったのではありません。たらいと水が運ばれ、主イエスが弟子たちの足を洗われました。ペトロの足も、トマスの足も、ユダの足も…。最後の晩餐に与えられたことは、威力ある武器や作戦を立てるアジトでなく、これからの激動を生き抜く知恵でもなく、「愛する」デモンストレーションと共に一つの命令でした。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」▲礼拝の度に最後の晩餐を再現します。もう一度その命(令)をいただきます。



2017年8月20日

「たとえそうでなくとも」

犬塚 契牧師

わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。 <ダニエル書3章>

安利俶さんが書かれた「たといそうでなくとも」の一文は、ダニエル書の3章の描写と時の隔たりを超えて重なります。「あの時と同じように、日本人はその八百万の神々を偶像化して、それを全東亜に強制的に広めるために、都市や郡や村々にまで一番高くよい場所に日本の神社を建てて、官吏たちに強制参拝させた。そして学校や官庁や各家庭に至るまで、神棚を配り、強制的に拝ませた。ついには教会の聖壇にまで神棚が置かれた。クリスチャンたちが礼拝する前に、先ず日本の神棚に最敬礼をさせるため、刑事を教会に配置した。日曜日になると各教会で刑事達が鋭い目を光らせて、信者の行動を監視していた。」▲その本の序文に酒枝義旗さんこう寄せておられました「神は実在して歴史の歩みを導き、また信じる者一人ひとりの生涯を顧みたもう方であるのか、それともキリスト信者だけが抱いている一種の信念、または思想に過ぎないのか。この本は数千年前にアブラハムを選び導き給うた神が、今もなお変わることなく信じて従う者を、どんな時にも愛し、慰め、教え、導き、すべてを益にして下さる生ける神であることを、数々の体験を通じて証している。」▲礼拝に集う、目を閉じて祈りを捧げる、声の大小の如何によらず賛美をする、神の言葉として聖書を開き、信仰の表れとして献金をする…。信仰者の行為は、神がおられないとしたら、どこまでも滑稽で無様です。しかし、空しい作業を繰り返しているつもりはありません。



2017年8月27日

「大きな喜びが天にあり」

犬塚 修牧師

「100匹の羊を持っている者がいるとして、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残しておいて、その見失った1匹を見つけ出すまで、探し回らないであろうか」 <ルカによる福音書15章4節>

 今年、私達は戦後72周年を迎えた。なぜ、アメリカは悪魔の凶器である原爆を、日本の無辜の民に2度も投下したのか。また、なぜ、日本はアジアの同胞を殺戮し続けたのか。人間の中に潜む罪が戦争を引き起こす。悪魔に支配され、また洗脳された人間は、神の似姿に造られた尊い人間を、まるで、「丸太、物」のように見なして虐待し、冷酷に殺すようになる。「99匹は数も多く、有用だが、迷い出た羊1匹などは、無価値で、何の役にも立たないから見捨てる」という傲慢な考え方が、争いや戦争を生む。この差別心、弱者をいじめ、愚弄する高ぶり、また、自分は正義と言い張るかたくなさが罪人の特徴である。▼イエスは99匹を野原に残して、弱い1匹を命がけで、探し回られた。この1匹は、私達の姿である。人生における失敗、罪意識、挫折冠、孤独、疎外感、無能、無力感、寂しさなどで、傷ついてしまう時がある。イエスは、そのような私達の苦しみを見過ごしにできず、何としても、癒し、取り戻そうとされる。▼このイエスの愛を知るならば、自己卑下という泥沼に足を引きずり込まれない。私達は神の尊い羊であるからだ。▼羊飼いのイエスに発見された羊は、新しい生き方へ導かれる。「悔い改め」とは「リフォーム」の意味を持つ。崩れそうな家を、新しい家に造り替える事に似ている。私達は自己中心的な腐れた家を直し、神中心の新しい希望の家にしたいものである。ヘレン・ケラーは、三重苦の女性であり、闇の世界に生きていたにもかかわらず、明るい笑顔に輝いていたという。その理由を聞かれた時、「私には、誰も知らない黄金の部屋がありますから。」と答えている。そこは主との愛の対話、祈りの部屋であった。主が失われた羊を自分の肩に担いで、帰られた時、天では大きな喜びがあふれた。羊は普段は下を向いて生きているので、毒蛇や狼に襲われる危険性がある。しかし、もしイエスの肩の上にいるならば、完全な安心と安全が保障される。また、今で見たこともない広い景色が見えてくる。金色の部屋と似ているイエスの肩の上で、生きていきましょう。




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