巻頭言
2016年8月


2016年8月7日

「わたしはなる」

犬塚 契牧師

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」  <出エジプト記 3章>

 異国の地ミディアンで人生を閉じようとしていたモーセが神から語りかけを受ける場面。40年の王子生活の後に、40年の逃亡生活…。価値なき柴が燃え続けるのに心を奪われて近寄って知った神の情熱…。燃え尽きたはずのモーセが再びエジプトに帰り、みなを導くように召されていきます。モーセは柴に自らを重ねます。神が臨在するふさわしいのはもっと高く、貴く、見事な木であり、場所のはずです。モーセへのアプローチに、神の遜った語りをみます。それでも、モーセは神に尋ねます。「わたしは何者でしょう」。病の時、存在が脅かされる時、生きる動機に薄い時、弱さを感じる時、一日に10回、100回も、1000回もこの言葉が浮かぶものです。「どうして私は…」「私にはどうしても…」「私なんて…」、根源はモーセの問いと同じ言葉に思えます。心に針がささり、喉にとげが残るようなうめきの中にあります。その後の神とモーセの対話は成り立っていないように思えます。モーセが何者かについては神は答えられません。モーセがどれほどの者で、どんな特性があり、リーダーにふさわしく、その経験(ミディアンの40年も含めて)がいよいよ発揮されるのだ!とのほめ言葉は出てきません。「私は何者なのでしょう」「わたしは必ずあなたと共にいる」…そんなやり取りです。なんだか、心を打つ場面です。きっと、私たちの同じ問いにも、神は同様に答えられます。そして、それが決定的に大事なことなのだと思います。



2016年8月14日

「なくてはならぬもので」

犬塚 契牧師

 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。 <列王記上17章>

 預言者エリヤの突然の登場。主の預言者が命追われ、隠れ、匿われる中で、アハブ王とイゼベルに対して、立ち上がった信仰の人。バアル神の無力を伝え、3年間の国の飢饉を預言しました。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」主が生きていることを公に伝えると共に、自分の現実にも知らされていくエリヤの道程があります。カラスに養われ、やもめに養われます。上記聖書個所、裕福な支援者のサポートでエリヤの生活が成り立ったのでなく、幼い子を育てるやもめのなけなしの粉と油で守られます。最後の粉、最後の油、ようやく拾った薪。………言葉を失います。やっぱり、今まで生きて知った常識と心に残る良心と頭に浮かぶ理念、理屈に照らして、この17章は納得がいかない場所です。ギリギリで養われる神を信頼した「エリヤの信仰」を褒められて終わる箇所とも思いません。▲押田成人神父が、その著作で托鉢に出かけた時のことを書かれていました。人への興味と羞恥心の中で、鉢を持って歩きながら、ふとそれを超えて呼び出される人と人の出会いに「コトことば」を思うというのです。お互いが施される経験があり、どちらにとっても忘れ得ぬ時であると。それは、私たちの世界を支配している「理念のことば」で説明がつくものでなく、「コトことば」の世界だと。そして、人は、「存在の神秘」に返らねばならないと語っておられました。▲列王記上17章に思うのは、そんな「存在の神秘」です。人の根です。エリヤの召命のシーンはありません。むしろ、この日がエリヤと神との日です。



2016年8月21日

「神の望む風景」

犬塚 契牧師

 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」 <マルコによる福音書6章30-44節>

 6章前半に弟子たちの伝道旅行への派遣とその結果があります。ヨハネの殉教の記事を挟んで、弟子たちの報告の場面となります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」(30節)報告をした弟子たちの興奮は冷めらずだったと思います。想像以上に上手くいった彼らは、今、ノリに乗っています。だからでしょうか、イエスキリストは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。休養のためにリゾートを紹介したのではありません。「人里離れた所」とは、祈り場でした。彼らは、人の誉れや自賛に囲まれるべきでなく、神のまなざしの内に置かれるべきだったのだと思います。順調な時に神の御手にあることを必要がありました。しかし、それを阻んだのは、たくさんの居場所のない人々でした。彼らがイエスキリストと弟子たちを取り囲みました。深い腹の底からの憐みによって、彼らを教えられました。そして、夕食時になりました。もう、人々を去らせなければならない時間です。弟子たちはそう伝えました。しかし、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。イエスキリストが言われたことは無茶なことでした。寝食共に従った若者たちに、200日分の日当が彼らにあるはずがありませんでした。意地悪に思える投げかけとも読めます。しかし、「人里離れた所」で祈りに向かうはずの彼らは、別の切り口で同じことを教えられたのだと思います。彼らの宣教旅行の成功も神の恵みの働きの表れでした。彼らの優れた何かが成功へ導いたのではありません。今、この群衆を前にして「何もない」という現実を知らされています。否、辛うじての「五つのパンと魚二匹」です。これがどれほどのものだというのでしょう。しかし、イエスキリストがこれを祝福するときにあたりに恵みが溢れ、神の望まれた風景が広がるのです。▲「五つあります。それに魚が二匹です。」私もそれ以外の言葉がありません。



2016年8月28日

「御言葉を行う人」

犬塚 修協力牧師

 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。 <ヤコブへの手紙1章19〜27節>

 聖書の御言葉をただ聞くたけではなく行う事で、信仰は本物となっていく。「行いのない信仰は死んだものである」(2:14) 人が救われるは、キリスト信仰による。どんなに立派な行いをしても救われない! 神の愛と義を信じる事で、初めて永遠の命を得る事が許される。もし、行いによって救われるとしたならば苦しいだけである。いつも行いの善悪について考え、イライラし、人や自分を裁きたくなるものだ。▼さて、主に救われた後、主への感謝の供え物として「行い」がある。善に励む事が主への精一杯の応答と知ると、私たちの心はスッキリする。なぜなら、他者が善事に励んでいなくても責める権利は私たちにはないし、また自分が善事に務めていても傲慢にはなれない。善事を自分の誇りや功徳のようには考えていないからである。▼さらに、御言葉を行う人は、岩地に自分の家を建てる人に似ている。逆に行わない人は砂地に建てる人である(マタイ7:24〜29)。 砂地に建てる事は手早く、苦労なく安価で完成できる。だが、一度大嵐に襲われると、その家は無残にも崩壊してしまう。他方、岩地に建てる事は苦労が伴う。お金もかかり、多大な労力と犠牲が求められ時間もかかる。人生の家も同じである。一見、無理、無駄に見える気苦労や悩み、努力、犠牲などはできるならば、無い方が楽であろうが、実はこれらは岩の上に、堅固な人生の家を建てているのである。たとえ大地震が起ころうともびくともしない。主と共に労苦して生きる人は真の意味で幸いな人であり、人生の勝利者となる。▼また行いとは「見る」事である。私たちは物事の本質を見ず、偏見や誤解、曲解、妄想で人を斜めに見てはならない。他者がどんなに慈しんでいてくれているかについては、全く理解せず、自分勝手な色眼鏡で見るのは危険な事である。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は……行う人です」(25節)とある。「一心に見つめる」とは「身をかがめて見る」事である。マグダラのマリヤは、復活の主と出会うために早朝、主が葬られていた墓に行った。そして、墓の中をかがみこんで見たところ天使が見えた。そのように、私たちもどんなに暗黒の世界であっても、主を待ち望みつつ信仰の目で見つめると、そこに輝く天使がいる事を発見するであろう。




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