巻頭言 2015年8月 |
「割増人生」
犬塚 契牧師
また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」<マルコによる福音書4章21-24節> |
マルコ1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との宣言から始まったマルコによる福音書。4章において、初めてその内実が例えとして明かされています。「神の国とは次のようなものである」(26節)とか、「神の国を何にたとえようか」(30節)▲それにしても22節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく」や25節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」などは、心のくさびとして、内側によくこだますることばです。この箇所は、格言的に残っているのだと思います。なんだか、秘めたる出来事への恐れが浮かびます。「隠してもバレる!やっぱりそうなのか」と。しかし、ここは「神の国」のたとえです。「神の支配」、「神のお取り仕切り」への気づきをもらうところです。一見、信じることなしには見えない「神の国」があり、秘められているような「神の支配」があり、隠れているような「神のお取り仕切り」があります。それでも「神のお取り仕切り」とは、火消し蓋でそっと消されてしまうのでなく、ベットの下でひそかに照らしているだけではない、しっかりと燭台の上に置かれる時が来るのだということでしょう。「燭台の置かれた日」と考えるとき、福音書が向かう十字架の出来事を覚えます。そして、そこに示された神の心を思います。そこでは、私の秘めたる闇、隠したる罪の断罪が際立ったのではありません。あらゆるスキャンダルの暴露が起きたのではありません。誰もその前には、立ち続けられない震えがあります。しかし、燭台に置かれたともし火が示したのは、私たちの闇を覆って示された主の栄光でありました。
「平和を保つ道」
犬塚 修牧師
「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなた方と共にあるように」<Uコリント信徒への手紙13章11-13節の内13節> |
ヒトラー暗殺計画に関わった者と断罪され、絞首刑となったたドイツのD・ボンヘッファー牧師は、刑の執行の直前に「これで終わりです。そして私の 命の始まりです。」と語った。彼は肉体の死を超えた新たな命の世界、永遠の彼方を見つめていた。その心の平和は生きた信仰から生まれた。同様にパウロも「愛と平和の神があなた方と共に」と書き、平和の大事さを語っている。▲「完全な者になりなさい」は「完全な者とされ続けなさい」と訳する 事ができる。自分の無理を重ねた精進で「完全になれ」と言うのではない。私達は神によって、完全にされていくのである。(参照:第一ペトロ 5:10〜11)。▲「平和」とは「あらゆる面における満たし、充満、また神から与えられる祝福の状態」の事である。「私達は主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」(ロマ5:2)とある。この「恵みに」は「〜の中へ」という原語が用いられている。▲また「共に」とは二つの意味があり、第一は「〜の真中に」である。主の晩餐式において、私達は主が「私達の唯中に」入ってこられる事を体験する。主が私達の内に住まわれている事は驚くべき恵みである。主の血と肉は私達を成長させていく原動力となる。第二は「〜の間に」という意味も持っている。▲この二つの意味を良く示しているのが、出エジプト記14章の「紅海の渡渉」の奇跡である。モーセに率いられたイスラエルの民は、紅海を眼前にして、死の恐怖におののいていた。後ろには、迫りくるエジプト軍の猛攻、目の前には紅海があり、彼等の心 は恐怖に怯えていた。しかし、彼らはモーセに率いられ、ついに信仰によって、海の中に飛び込んだ。その決断と行動によって、水が分かれ、水の壁となり、民は奇跡的に救われていった。これは私達の人生を暗示している。なぜ、彼らはそのようにできたのか。それは、神が自分の「真ん中に」おられるという確信があったからではないだろうか。また「雲」がエジプト軍の進軍を阻んだとある。主が民と敵との「間に立って」民の命を死守されたのだ。私達は主を信じ従う時、このような奇跡を日々体験して生きて行く。心に生まれる不安は、近くにある怖ろしい「水の壁」がいつ、崩落するのかという恐れと心配から生じてくる。しかし、恐れたり、思い煩ってはならない。その水の壁は決して崩れない。なぜならば、私達を追いかけて来るのは、敵ではなく、主の恵みである。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う」(詩編23:6)
「あたりまえの未来が奪われている」
草島 豊協力牧師
富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。<ヤコブの手紙5章1-6節> |
たとえ戦争状態になくても、世界で大勢の人々が、いまこのときも暴力に怯え、命の危険に曝されている。それは平和とは言えない。経済格差がなければ飢えて死ぬことがなかった人々、差別がなければ能力を発揮できた人々、公害がなければ病に振り回されなかった人々。あたりまえの未来が奪われている人々である。
14年前、フィリピン・ネグロス島を訪問した。サトウキビ畑が広がる島、そして飢えて死ぬ子ども達。私たちは小さな村にホームステイをした。もてなされた食卓。客人の余りを子ども達が食べる。わたしのスプーン一杯で、子どもの一杯が無くなるのだ。翌朝、労働でしわくちゃだらけのおじさんが満面の笑みで「また遊びに来い」と。あたりまえの未来が奪われていた人々との出会い。その背景に日本、そして自分自身がいた。ヤコブの手紙の搾取する主人と日本人の自分の姿が重なった。
あたりまえの未来が奪われている人々がいて、それに加担しているわたしがいる。格差が拡大した日本で、奪われているわたしでもある。さらに、いま奪われようとしている私たちの未来。あたりまえの未来を奪う社会は、誰かに犠牲を強いる社会でもある。犠牲が必要だ、という理屈が並べられる。しかしイエスは、「ちょっとまて。ではこの人達がはどうなってもよいのか。おかしい。神さまはそんな無情ではない」そう反論されたのではないか。
「ゆく手をまもる永久の君よ」
犬塚 契牧師
そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。 <詩編8編> |
ヘンリー・ナーウェンという人が、喜びが内から輝き出ている自分の友人のことを書いていました。ナーウェン自身は、彼と会うと否定的なことを伝えたくなる誘惑にかられると…。絶えない戦争、子供を襲う飢餓、腐敗した政治や騙し合う人々の姿。人間のどうしようもない壊れた状態をみせつけたくなるといいます。しかし、そういうことをするたびに、彼はやさしい目で語るというのです。『二人の子供がね、パンを分け合っているのを見たよ。(それから)一人の婦人が毛布をかけてもらったとき、微笑みながら「ありがとう」って言うのを聞いたよ。わたしに生きる勇気を与えてくれたのは、こういう貧しくとも素朴な人々なんだ』 そして、この喜びは伝染するようです。「たとえ雲の下を歩いているときでも、太陽について語り続けることができる人ことこそ、希望の訪れの使者であり、この時代のまことの聖人といえる人」と紹介していました。▲バプテスト連盟の中高生と「隣人に出会う旅―沖縄―」に参加しました。アジア太平洋戦争中、日本で唯一地上戦が行われた沖縄の戦争跡を巡りました。「ぬちどぅたから(命は宝)」の島で、命が軽く、うんと軽く扱われたことを確認します。中高生も、おのずと自分のいのちの重さということを考えたことでしょう。簡単ではない震えるような問いです。しかし、思えば、既に彼らの生きるの現場も、いのちが脅かされています。メールの返事やタイミングで追い詰められてしまう息苦しさ、カッター一本で命を奪ってしまう狂気、日本国が守らない囚われた命と自己責任と切り捨てる恐ろしい空気、国を守るために多少は死ねという法案…。生きているところは、すでに寒い風が吹くところです。時間が許されることならば、いのちの創造主の心をじっくりと共に、ゆっくりと呼吸合わせて、聞きたいと思いました。人が真に畏れやゆだねを持って、どこにつながっているのかということは決定的に大事に思えます。詩編8編は、つながっているところを歌います。神のサインを世界に見ます。砦を築き守ることはあっても、攻撃は神にゆだねます。天を見上げ、賛美をささげ、任された使命を思い起こして、生きることへ再び参与するのです。
「心いっぱい」
犬塚 契牧師
雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。 <出エジプト記 40章34-38節> |
出エジプト記前半部分のエジプト脱出の物語のダイナミズムは、後半には失われて、とても読みずらい祭儀の規定が続きます。人が自分の都合で神に近づくことへの戒めがあります。また幕屋の建設が命じられました。幕屋とは、神と出会うテントであり、荒野を怖れと不安の中を行くイスラエルの人々と神が共にあることの証拠でした。神が造ることを命じ人々が高価な材料を用いて、懸命に作りました。しかし、幕屋完成の後に主の栄光が幕屋に満ち、モーセですら中に入ることができなかったことが記されています。出エジプト記はそこで終わって、レビ記に続くのです。可動式の幕屋は、いつでも出かけていける、簡単便利な神の住まいでありませんでした。そこは、主の栄光が満ちた場所でありました。幕屋を通して、神の臨在を確認し、神が立てば人が立ち、神が待てば人が待ちました。出エジプト記の最後のこのシーンは、イスラエルの信仰の理想の在り方がありました。神を持ち運ばない、振り回さない、神に頼るそんな信仰です。▲人は、神を自分の理解の範疇に押しとどめ、矮小化します。想像を超えた超越者であることを忘れます。幕屋の雲を払い、神を忘れたままでも生きていけるとますます感謝からも畏れからも祈りからも遠のいていきます。神を引き下げた人間は、やがて「神のかたち」創造された人をもそのように見るのでしょう。いのち失われる事件の後ろで、神のかたちが失われていることに思いをはせる人がいなくなりました。人が神を見失い、人が人であることを見失って、もうしばらく経ったでしょうか。後の人々は、は私たちの生きたこの時代を振り返り、何を大切にした時代と評するでしょうか。主の栄光が満ちたことによって入れなくなった幕屋が、荒野の宿営地の真ん中に建てられた恵みを思います。