巻頭言
2014年8月


2014年8月3日

「御子に似た者となる」

犬塚 修牧師

 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 ヨハネの手紙T 2章28〜3章2節

 @「確信を持つ事」(28節)について………「御子の内にいつもとどまりなさい」(28節)とあるが、御子イエスから離れるならば、私達の心は悲しみと不安、恐れに支配されてしまう事はないだろうか。当時、初代教会を破壊しようと誘惑していたものがグノーシスの思想とケリントス主義者であった。彼らはイエスの支配の外側に留まろうとした。主のために犠牲を負う生き方は愚かであり、エゴイズムで生きても良く、この世の快楽を優先し、主に従う事は大した事ではなく、痛みや悲しみを受容する事を拒絶するという無責任な生き方を提唱した。それに対して、ヨハネは御子に対して、誠実に仕えて礼拝していく事、またイエスの内にとどまる事を力説している。両者は激しく戦っていた。また「確信」は元来「言いたい事を自由に大胆に全部言ってしまう事」である。自分の思いを抑圧してしまう事なく、どんな事でも、癒し主であるイエスに打ち明ける事が大切である。主は私達を裁かれない。生ける神以外の存在に強く依存すると、難問題に悪化するケースもあるので、気をつけねばならない。ひたすら主に向かいたいものである。ヨブは、主に自分の屈折した感情をぶつけたが、その真摯な告白が癒しにつながった。主は秘めた悲しみの感情を受容し、優しく手当をして下さる。祈りによって、主との親密な対話を続けよう。また、主は「私に信頼してほしい」と願っておられる。私達の信頼がないと主の鮮やかなみ業は起こされにくいのである。▲A(U)「御子に似た者」(2節)となる。…御子は私達を深く愛されたが、こちらからの見返りを余り求められなかった。何度裏切られても、恨まれなかった。ひたすら一方的に愛し、赦し、慈しみを与えられた。主の赦しは無限である。南米の「エンジェル・フォール」(高さ979m)という巨大な滝では、上方の水は滝壺に到着する前に、水蒸気や霧となるという。高さが桁外れだからである。これは主の赦しの大きさと似ている。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:19)アダムの長男カインとは「所有する」、次男のアベルで「水蒸気」の意味である。カインのように、何かにこだわり続け、執着する事なく、アベルのように、その思いを神にゆだね、心が霧のような柔軟さや自由さを身につけたいものである。これは人に対して、余り見返りを求めない心の寛大さを示している。



2014年8月10日

「不思議な助け手」

犬塚 契牧師

 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように。」 創世記 14章17-24節

 創世記14章。聖書に初めて登場する国家間の戦争物語です。チグリス・ユーフラテス川流域に栄えたメソポタミアとナイル川を湛えるエジプト、この二つの文明を結ぶカナン地方は、当然に挟まれて揺らぐ立場にありました。14章前半には、メソポタミア側のエラムの王ケドルラオメルに反旗を翻すカナン都市国家同盟の同行が書かれています。彼らは12年の支配に対して、我慢ならずカナン地方で同盟を結び、戦いを挑んだのでした。しかし、メソポタミアの王たちも素早く連合軍を結成し、圧勝します。「ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。」(12-13節)▲ロト一家が延々とメソポタミアに続く捕虜の列の中にいると逃げ延びた一人がアブラハムに伝えました。急いでアブラハムは精鋭318人を集め、遠路を追い、奇襲をかけ、奇跡的にロト家族を奪還することに成功します。彼が勝利し、凱旋した時には、「王の谷」でソドムの王ベラとサレムの王メルキゼデクに迎えられました。族長の一人に過ぎないアブラハムが諸侯の一人にも加えられそうな場面です。しかし、メルキゼデクはこう祝福しました。「天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように。」▲命を賭けたのはアブラハムたちです。しかし、神賛美で終わる祝福の祈りでした。彼はそれを受け入れて、メルキゼデクに10分の1の捧げものをしました。のちにソドムの王から財産の差し出されても彼は受け取りませんでした。一生食うには困らぬ財産です。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。」▲アブラハムは信じがたいことを信じ、受け入れ難きを受け入れ、使命に生きようとしたのだと思います。メルキゼデクは祭司として、それを明確にしました。12章の召命を思い起こします。「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」



2014年8月17日

「平和のために」

犬塚 契牧師

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。     マタイによる福音書5章9節

 聖書は、神のビジョンを記しています。神の望まれたあるべき姿です。一つは「仕事をする」ということです。仕事とは、大抵イメージされるような対価によって評価されるものという意味ではなく、ハローワークの求人に応募することでもなく、神様が造られた世界を管理を手を入れ、美しく整え、それを喜ぶために働くというものです。神様は、自己完結して、世界を造り、「手を触れないでください」と張り紙をしたのではありませんでした。人が参加して、美しくよいものとなるように、喜んで生きることができるように造られました。共同作業を喜ばれる神です。こうあれと望まれた神の「ありのまま」、神のビジョンのひとつがそこにあります。日本人の皆が桜を美しいと言えば、神を信じる人はその後ろに神の御手を思ってなおのこと、感謝を深くする自由があります。▲もう一つは「一緒に生きること」ということで、神のビジョンです。たくさんの教科を教える学校が、それらの教科書だけを渡して自習にしないのは、共同作業を通して「一緒に生きる」ことを学ぶ必要を知っているからでしょう。それらを終えても、私たちはなんとか出来事から、学び、考え、試し、修正しながら、一緒に生きれるように促されてきました。時には傷つきながらもです。一方、「人を一緒に生きさせない学び」は、どんなに深さがあるように見えても、神のビジョンの中にあるとは思えません。敗戦から69年が経ちました。2011.3.11に2万人の方々が亡くなることの衝撃を覚えています。ただ佇む以外にない時間であり、日本の痛みでした。アジア・太平洋戦争においてはその150倍の300万人の命が失われました。戦争は一緒に生きることを根こそぎ奪います。思えば、創世記4章の最初の兄弟カインとアベルにして、一緒の生きることに失敗しました。哀しいかな人は、人間の力だけでは一緒に生きるということを果たし得ないのです。それでもあきらめないのは、イエスキリストを遣わされた「インマヌエル」(神我らと共にいます)の神があきらめないからです。受肉の主イエスを知らされること、目をあげることの内に、平和への道があることを覚えたいと思います。「人間の姿で現れ、へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。」フィリピ2章。



2014年8月24日

「苦難からの解放」

犬塚 修牧師

 「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。」 詩篇4編9節

 8月は終戦の月で、真摯に平和を考える時である。戦争とは人殺しである。いかなる理由があろうとも戦争を起こしてはならない。戦争は善人を残忍な人間に変貌させる。戦争は神が愛されている比類ない人を抹殺する事であるから神への冒涜である。戦争を引き起こすのは、貪欲な権力者たち、隠れた売国徒たちである。彼らの欺瞞と強欲に騙されてはならない。戦争は個人的な不和、確執から生まれる。イスラエルの王ダビデに対する息子のアブサロムの背信行為により、ダビデは苦悶した。その時の苦悩を思い起こして書いたものが3篇から5篇である。3篇と4篇は「夜の詩」、5編は「朝の詩」と呼ばれている。彼は苦難は喜びに変わると確信していたのである。夜は朝へと向かうように人生の闇夜も、必ず朝焼けに向かうと信じていたことが分かる。 1 平和について…… 「私の正しさ」とはダビデ自身の義ではなく、神から与えられた義である。また、「苦難からの解放」とは「神が私を別の余地(部屋)に置く事、ゆとりを持つ事である。生きていると炎が燃え上がるような辛い試練に遭遇する時があるが、そのような時は、必死で別室(イエス・キリスト)に飛び込む事が求められる。イエス様以外の所に、隠れようとすれば、平和は与えられず、戦争が起きる危険性がある。互いに要求し、依存しあうからである。救いはイエスの内側にのみあるのである。  2 沈黙に入れ……「おののいて罪を離れよ」とある。人間は、主のみ前に罪びとあって神に反逆している。私達は自分の罪を深く認める必要性がある。そして静かに沈黙する事である。人間にとって救いとは聖なる神のみ前に黙して座す事である。この世の喧騒から離れ、耳を澄ませて神のみ声を聴く時に平和は訪れて来る。平和とは何の問題もない平穏無事生活の状態ではない。それは一人の少女が、夜道を母の手の温もりを感じながら、共に歩いていく姿に似ている。暗黒の中にあっても少女には不安も恐れはない。





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