巻頭言
2013年8月


2013年8月04日

「救いを与える神」

犬塚 修

 「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで救いを得よ」 イザヤ書45:18〜22

 イギリスの説教王チャールズ・スポルジョンは15才のある吹雪の朝の礼拝において、自分の救いを体験した。農民説教者の語った言葉が彼の人生を変えたのである。その言葉とは上記のみ言であった。救われる前の彼は自分の醜さ、罪ばかりを見つめ、絶望するばかりであったが、その目を自分から離し、神を見上げた。神は自分のすべての罪を赦し、救いを与える事を信じたのである。私たちはとかく自分の(過去、思い、計画、品性、性格、業績、名誉、プライド、能力など)ことに目を向けがちである。一方、神には頼らないで生きようとする事はないだろうか。その悪しき傾向を捨て去り、ひたすら主を仰ぐ事が救いである。では、私たちを導く主はどんなお方か?▲@主は私たちの創造主である。――神は平和も災いも創造されるとイザヤは記す。これには驚きを覚える。神は災いの中でも「置かれた宝、隠れた富」(3節)を備えられている。一見、災難に見える厳しい事態になると、私たちは必死で主に向かって叫び、祈る。その時、天からの素晴らしい啓示を受けるであろう。それによって、稀有の才能は自分の内から出てくるというよりも、神からの贈り物だと悟るようになる。▲A主を仰ぐとは、自分を見ないで、神の勝利を信じ、自分の力で戦う事をやめる事である。――ミカ書7:5〜9に力強いみ言がある。とくに9節には「主はわたしを光に導かれ」とある。つまり、神を仰ぐ者は光に包まれ、まさに光の厚いベール、衣にくるまれているようであるので、人々の心無い言葉に傷つく事はなくなるであろう。いかなる毒矢も主を信じる者の心に突き刺さる事はないのである。▲次に歴代誌下20章では、ユダの王ヨシャファトの苦難が記されている。彼は迫り来る敵の襲撃を考えて、おびえたが、ついに一大決心して、命を懸けて、王は神を仰いだ。この真実な王に対して、神は「これはあなたの戦いではなく、私の戦いだ」と語たって下さり、その後、驚くべき大逆転の出来事が起こり、ユダは奇跡的に勝利した。私たちは何を、また誰を見て生きているだろうか。試練の日であっても、救いの神を見上げて大胆に生きていきたいものである。



2013年8月11日

「もう一度戦争をすればいいのです」

犬塚 契

 平和をこそ、わたしは語る・・・。 詩篇120編7節

 今週中に68回目の終戦の日を迎えようとしている。先日、沖縄にバプテスト連盟の教会に属する全国の中高生と出かけた。太陽が近い島の青い海は、普段見る青ではなく、実に濃く目に映る。この海が、米軍の軍艦で埋め尽くされ黒く見えた話を聞いた。やがて始まった艦砲射撃とその後の地上戦で追い詰められ南部に逃げた人々の足跡をバスでたどった。青い海は軍艦の黒に変わり、やがて赤く染まった。それが、わずか68年前の夏の出来事だとは想像がつかなかった。隆起珊瑚でできた沖縄には、ガマと呼ばれる自然洞窟がある。そこが住民の避難所となり、陸軍の陣地となり、野戦病院となった。光が入らないガマの中を小さな懐中電灯を手に歩いた。麻酔なしの切断手術が行われた。切られた肢体を脳症患者は「煮て食わせろ」とせがんだ。68年前に響いた怒号と泣き声と悲鳴は今は聞こえない。入り混じった臭いもまた今はなかった。時折、上から落ちる水のしずくがはねる。聞く世界、立った場所は、遥かなる古代でなく、68年前なのに想像がつかない。▲普天間基地の代替地とあげられている辺野古にも出かけた。元沖縄キリスト教短期大学の学長であった平良修牧師から話を聞いた。平良牧師は、35歳で学長に就任し、まもなくアメリカ・沖縄高等弁務官の就任式に「この高等弁務官が沖縄最後の高等弁務官となりますように」と祈って、大きな反響を呼んだ。浴びせられた批判は、平良牧師の覚悟を固めたという。今年で82歳になられる。質問の時間が与えられたので、私は一次証言、一次資料の風化と解釈の変容にどのように立つ場を定め、保てばいいのかと聞いた。平良牧師は答えてくれた。「戦争を確実に止める方法がひとつあるんです。」・・・「もう一度戦争をすればいいのです。そうすれば、みんなもう戦争はしたくないというでしょう。・・・ただ、それだけはしてはいけないのです。」正義の戦争などどこにもなく、不正義、不条理の寄せ集めが戦争なのだと。あらゆる追体験の及びもつかない有様が戦争というものなのだと。それは資料や解釈を超えて、「ただ、それだけはしてはいけないのです」。



2013年8月18日

「神を証人として」

犬塚 契

 そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。  創世記31編49節

 やがてイスラエルと呼ばれ、それは国の名となり、すべての王の基となる人物ヤコブ。それでも、虚飾と神話の偉人伝が創世記に書かれているわけでなく、出生の出来事(双子の兄のかかとをつかんでの出産)が象徴するように、押しのける者であった彼と彼の家族を、神は祝福を数える者とされた。時間のかかる、繰り返しの必要な歩みが続く。魔法のボタンで一気にひっくり返ることはあり得ない。愛されない妻レアが神に慰めるを見出すまでしばらく、ヤコブが自分の計画を断念するのに十数年、ラケルの信仰(旅立ちに際して守り神を盗んだ)が問われるまでも時間が必要だった。スマートでも美しくもない、ちぐはぐでしっちゃかめっちゃかとも言える。それでもこの家族への取り扱いを放棄せず、ご自分の契約を遂行される神の姿を知る。ならば、同じ神ご自身が引き続き、その憐れみと慈愛の中で、今を生きる私たちをも取り扱ってくださっていると信じてもよいのだと思う。▲逃げなければ伯父ラバンのもとを離れることはできないと思ったヤコブは家族を連れて夜逃げした。3日後に気づいたラバンは、その後を追いかけてきたが、抗えない神の計画を知らされ、ヤコブと新しい約束を結んだシーンが31章にある。二人は神を証人として、誓いを立てた。神を恐れる者たちにして、最も確実な「見張り」だった。▲誤解を受けることは苦しいことだと思う。そんな理不尽さに身悶える。しかし、本当に正確に理解されれば、私たちの内に何が残されているだろうか。失望して一人残らず人は去っていくだろう。誤解されてようやく人の前に立てる、そういうこともあると思う。ならば、神を「見張り」とすることに誰が耐ええるだろうか。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら主よ、誰が耐ええましょう。」(詩篇130編5節)。▲イエスキリストの受肉、十字架、復活によって知らされる神のお姿にして、はじめて「神に知られること」が慰めになり、見張りは見守りへ、恐れは感謝に繋がる。



2013年8月25日

「目標を目指して走る」

犬塚 修

 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・」 フィリピ書3:12〜21

 フィリピ書のテーマは「主にあっての喜べ」であり、この喜びは状況の善し悪しによって、左右されるものではなく、永続的であり、また生きる力の源 泉である。パウロは、日常生活の中で、常に主を喜ぶ生き方を勧めている。@自分は完全であると思いこまない―パウロに敵対する人者たちの考え方は完全主義であった。彼らは自分の考え方を正しいとして、相手の失敗 を責め、攻撃した。完全な人間は一人もいない。もし自分の主張を繰り返し、自己正当化を図るならば、喜びは失われていく。 自分を導く者の座においてはならない。人の都合をよく理解し、バランスの良い道を求める事である。全体的なバランスが失われると、強行突破、猪突 猛進な行動に走りやすい。古い自我に生きていた頃のパウロは、かたくなな価値観に固執していたが、主に救われて180度変えられ、寛大な人、また愛の人となった。Aうしろのものを忘れること―私たちの後ろにあるものは罪責感、過去へのこだわり、ある考え方の呪縛、悔恨の念、怒り、憎悪など色々とあろう。それら一つ一つを忘れて、主が計画しておられる未来に向かって前進する事である。その生き方には喜びが伴う。完全に忘れる事は難しいかもしれ ないが、主の十字架の愛と赦しを思い起こすならば、心は時と共に、自然に変化していくのである。B上を見て生きること―喜びのない歩みは、上を仰ごうとしない時に生じる。この地上には失望、落胆、混乱、矛盾、不条理、悲しみ、裏切り等 の深い底なし沼のような闇が広がっている。しかし、上には、広大な青空があり神の栄光を反映している。パウロは「我らの国籍は天にあり」と記している。この世にしがみつき、悪しき勢力と歩調を同じくすれば、喜びは失われる。上を見る人は新しい希望を発見する。ミケランジェロは「最後の審判」をローマにあるシスティーナ大礼拝堂の正面の壁に雄大なスケールで描いたが、自分自身の姿に関しては抜け殻のような哀れな一枚の「皮」として書き残した。私はキリストの前に無に等しい者というへりくだった誠実な告白こそが、彼の力と喜びの源となったのである。





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