巻頭言
2012年8月


2012年08月05日

「永遠を思う心」

犬塚 契

 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・・わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 コヘレトの言葉3章

 コヘレトの言葉の中でも有名な3章。「すべてに定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時…」。コインの裏表のように人の営みには好ましい時、忌まわしい時の両面があるのだと語る。おそらくは一方だけ、一面だけ、得ようとすることは難しく、むしろ不自然なのでしょう。都合のよいところばかりを選ぶことはできないのだと。▲違法な薬物が驚くような方法で輸入され、それが摘発を受けたニュースを聞く時、できれば一面だけを奪い取りたいとする人間の強い力を感じる。日々ついでる口の不平はその源だろうと思う。▲3章を繰り返し読みながら、人も出来事も度々に移り変わる興亡が目に浮かんだ。時にうろたえ、翻弄される。「ぼろくず」のごとく思える日もある。また聖書の背景の人々も思い出した。旧約聖書のマラキ書から、新約聖書までは400年のへだたりがある。シメオン老人は幼子イエスを喜び「「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と話したが、それまでに400年を経ているのだ。かつての信仰者たちは何を思っていたのだろう・・・その信仰の実はどこにいただいたのか、どう理解していいんだろうかと。▲3章11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と口語訳聖書は記していた。神ご自身は時に翻弄されているわけではない。ただご自身の「美しい」時に従って、その段取りをされておられる。信仰者はそれをもって希望をいきたい。そして、知らされる今日の、コヘレトの言葉は、私の父は、醜く仕上げる予定はないということ。



2012年08月12日

「神のかたち」

犬塚 契

 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。 コヘレトの言葉4章9節

 東海大学前駅、鶴巻駅の周辺にも教会がいくつかあって、少し汗は流れるけれども歩いても行ける距離。つるまき聖書チャペル、秦野詩音教会、愛のキリスト教会。神を賛美し、神を拝するという尊い行為が、それぞれに与えられている場所で豊かに相応しく整えられ、祝されるようにと思う。旧約聖書に登場するダビデはかつて「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」と歌った。ともすると良き事も悪き事も預っているものも借りているものも、「すべて私のもの」と自分でサインをすることの多い高慢さがある。持分を超えた越権を、時々は天狗になって、時々は涙ながらに為していると思う。礼拝が人が神にならなくてもよい場へと導き、神を褒め称え、人の幸いへと繋がるように。▲サンドアートという砂を使った芸術をテレビで見たことがある。ガラスに撒かれた砂は、アーチストの両手で影絵のように絵が描かれ、それは変化しストーリーが伝えられる。残らないアートというはかなさも合わさって、見た者は心地よくも不思議な時間を過ごす。夏の空を見て、それが地球大で広がっているのを感じた。空の色、雲の形、日の角度、惜しげもなく変化するデザインに神のことばを聴く。雪の結晶を二つと同じに造らない美しいセンスにも心が動く。▲9月30日に予定している招待礼拝の講師である内藤容子さん。彼女は「美しき人」という曲の中で「この世界で一番美しいものそれはこの人のこの姿」と賛美していた。青空、夕焼け、澄みきった川・・・様々な美しい風景の最後にイエスキリストの歩みと血塗られた十字架が想起されるようになった。十字架があるから神ご自身は罪ある者を赦し、共なることがおできになる。コヘレトの4章の前半部分は、産まれないのが一番幸せといえるような惨状を描く。それでも上記の9節がある。支え、支えられ、見逃し、見逃され、愛し、愛されの中に、関係を喜ばれる神のデザインをみる。



2012年08月19日

「歌いながら」

犬塚 契

 焦って口を開き、心せいて神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。・・・人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。・・・彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。            コヘレトの言葉5章

 先日、多少無理をさせて子どもに用事を付き合わせたものだから、長男が「ぜんぶ、おわったら、かわにいきたい」と言い出した時は、ノーとは言えなかった。私は、スーツを着ていたから、存分に遊ぶことは出来なかったが、川の水をさらうように吹いてくる風は心地よかった。鳥の鳴き声が聞えて、水面すれすれを小鳥が飛んでいった。「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6章)がふと頭に浮かんで慰められた。▲マタイと違いルカの12章では「鳥(とり)」ではなく「烏(からす)」のことを考えてみなさいと書かれている。鳥ならコバルトブルーのカワセミをイメージしていたのに、カラスは黒だ。美しい絵となるようなイメージは変わり、荒らされたゴミ捨て場のイメージが浮かぶ。野原の花もそうだ、「明日は炉になげこまれる」花はきっとパンジーやビオラではなく雑草だ。それでも神の目に映り、養いの中にあるとの言葉。▲衰えや言い知れぬ不安感、置き去りの恐怖・・・。それでもコヘレト5章の1節。地にある私たちには、天の計画のすべては知りえない。神の前に言葉数はやはり少ないほうがよいのだろう。カラスや雑草もすでに神の守りのうちにあるのなら、なお、ままならぬ歩みひっくるめて、生かされる生きたい。感謝の門を入り口として入り、神に覚えられているのだということを十字架によって教えられ、しみ込ませ歩みものでありたい。



2012年08月26日

「平和を実現する人々」

犬塚 修

 「平和を実現する人々は、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 マタイ5:9

 私達はだれを人生のパートナーとしているであろうか。戦争を引き起こす悪しき勢力か、それとも平和の主か、そのいずれかを選ぶ事は大きな問いかけである。また、平和とは戦争がなく、充足感に満ちた状態の意味である。たとえて言えば満月のような状態と言えよう。
@神との平和−−−「その十字架の血によって平和を打ち立て……万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:20) 平和は自分の努力や難行苦行によって、つくり出すものではなく、一重にキリストの十字架の血による。私達の罪はこのお方に移され、信仰により無罪放免され、聖なる無傷の神の子とされた! 故に自分をそのままで受け入れ、感謝して生きる事が可能となった。今や私達は完全な主の守りに移されており、もはやサタンによる罰や責めが、私達の心に侵入する事はないのである。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(マタイ10:30)
A自分との平和ーーー私達は自分を嫌い、自分いじめをしてはならない。また自分の偏見や思い込み、絶望に至る傾く悪しき憶測に陥ってはならない。むしろ、驚くべき救いの出来事を、危機的な時に起こされる神を信じぬくべきである。主にあって、自分と和解し、自分を赦す事は大切な真理である。また、怒りの感情を正しく取り扱う事も重要である。主の完全なご支配を確信して、忍耐強く平和に生きたいものである。
B 他者との平和−−−他者との正しい関係は大きな課題である。他者の本意を汲み取る事は難しい。その場合に求められる適切な態度は「教えようとせず、分かろうとする」寛大さと赦しの心である。相手を無条件的に赦し、受け入れる事が可能なのは、聖霊が共に働いて下さるからである。





TOP