巻頭言
2011年8月


2011年8月07日

「ノアの箱舟」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。…ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。創世記6章

 妻の両親が招いてくださった昼食会。見たことも食べたこともないような大きな舟盛りが準備されていて嬉しかった。海を真横に見ながら、客室で食べた料理はどれも美味しかった。あんなに贅沢な気持ちになった料理ははじめてだった。ただ一つ、心痛いのは私が一時間ほど遅刻してきたことで、揚げ物が熱々でなく、汁物がぬるいことだった。私は楽しみに準備くださった両親の気持ちを少し台無しにしただろうか。若い私たち夫婦のために遥か前からその日のために予定を組み、メニューを考え、注文し、もてなしてくださった心を思う。▲創世記6章の「神は地を御覧になった」とは、チラッと眺めたのとは違う。たまたま目についたのではない。己が腹のみを神とし、堕落と不法を繰り返す人々の生活を神はじっーと痛みの中で見ておられたのだ。一向に顔が天に向けられない有り様、無視され続けられる神の心。一人ノアだけが神の心を知りたいと願う無垢な人だった。ノアが箱舟を作るその作業は、人目のつくところとなっただろうし、制作の長い月日は、悔い改めの機会となるべく開かれたものだったが、結局はノアの家族のみが洪水から救われた。6章にノアの言葉は一言も書かれていない。ただ最後に「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」と評されている。生身の人が生きていく中、取り扱われるべき自分の課題、どう理解してよいのか分からない出来事、宿題として保留のこともあるだろうか。「自分がいかに神に対して無知であるかということに、私たちははっきりと目覚めていなければならない」というユージン・ピーターソンの言葉の引用を目にして、ただうなづいた。聖書の最後の言葉、迫害下おいて、圧倒的な恵みと主の来臨を祈った信仰者の立ったところを覚える者でありたい。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。



2011年8月14日

「わが身の姿がさらされ」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 ヨハネ 8章7-8節

 朝日さす神殿の境内の学びの時。イエスキリストは、例え話を交えてそれぞれの歩みのただ中にある神の国、神の支配について話をされていただろうか。前章での神殿の境内のシーンは「大声で…」とあるから、ここぞというポイントでは強調して伝えられもしたのだろう。しかし、そんな学びを中断する出来事が起こる。律法学者、ファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせたのだった。豊かな学びの場は、裁きの場に一瞬にして変わった。彼らはイエスに神の義、聖さを知っているのならモーセの律法に従うべきだと迫り、石打にすべく女性をモルモットのように差し出した。実際にその場で死刑にすれば、普段の「敵を愛せ」との教えと矛盾するし、かと言って神の義はないがしろにもできない巧妙な問いだった。先ほどまで教えておられたイエスキリストは彼らの登場以後、一転、静かに地面に何かを書き始めたという。彼らの行動は明らかに策略だった。女性だけが連れてこられ、男性がいないことから買収されてつくられた可能性も残る。女性は悲しいけれど、それが仕事でたまたまに今朝利用され、捕まったのかも知れない。相手の腹の色は見えている、クロだ。真っ黒だ。ならばイエスキリストは、「男はどこに行った!こんな事件はでっちあげだ!人を利用して、こんなワナを仕掛けるべきではない」と怒り露わに喝破してもよかったと思う。そう大声で叱ったら万事早急に解決しないだろうか。そして、それが馴染みある、よく聞く物事の解決の仕方にも思う。▲無視したのではない、石打ちに脅えた女性の直視でもなく、殺気立つ告発者たちの目線に合わせるでもなく、地面を見ながら訴えをじっと聞いておられた。そして、冒頭の聖書箇所に。一度、人々の手に石が握られ、罪が示され、石はまた戻されるという場面は想像すると感動する。この女性を罪に定めなかったイエスキリストは数日後、罪の身代わりに背負って十字架についた。



2011年8月21日

「いつくしみのまなざしで」・・・先週の説教要旨

犬塚 修

 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 マルコによる福音書10章21節

 主イエスの足元にひざまずいた青年は、まじめで熱心な信仰の持ち主であったが、半面、致命的な欠陥も露呈した。つまり「主よ」と言わず、「善い先生」と呼びかけた。本来「善い」は鼻から息をする罪人に過ぎない人間ではなく、神のみに使うべき言葉だった。もし私たちがこの「善い」を特定の人間に向かって用いるならば、恐ろしい失敗を犯すだろう。戦前、ドイツ国民はヒトラーを「善い指導者」と錯覚して身の毛がよだつ地獄を招き寄せてしまった。私たちは短絡的に人を善悪で判断しやすい一面がある。完全な善は神にしかないと悟る時、初めて、私たちは弱さによる連帯とあわれみの心を持つことができるだろう。 彼は自分は幼い頃から神の戒めを守ってきたと言った。それは高慢に見える答えである。普通の人であれば「そのような高慢な態度が良くない」と注意するかもしれない。しかし、主イエスはそのようにされず、彼をじっと見つめ、慈しまれた。「慈しみ」は「無条件な愛」という原語である。イエスは青年のこれまでの半生を顧み、彼がまじめに一生懸命生きてきたこと、またそう答えずにおれなかった心の痛みを受け入れ「良くがんばってきたね」と優しく包み込まれた。人間は責められ、批判されることでは変わらない。私たちは神にまずあるがままに受容されることで、本来の自分を発見する。そして「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と命じられた。実現が難しい命令を下されたのではなく、青年の心の自由を奪い、苦しめていたもの― 即ち「財」に対する異常な依存、こだわりからの解放のためであった。これは「財」にとどまらず、「プライド、しがみつき、欲望、我執」などからの解放も大事である。私たちも主イエスに従うことで、さらに自由にされて生きることができる。「真理はあなたたちを自由にする」とある通りである。



2011年8月28日

「信頼から生まれるもの」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。                マタイによる福音書 15章26-28節

 この女性とイエスキリストとの場所は、ティルスという町だった。ガリラヤよりも北に位置する漁村であって、マルコによる福音書7章の平行記事を読むとイエス一行のための「隠れ家」があったらしい。そこは、枕する所もない疲れた体を休めるに適した休息の場だった。知られたくはないその場所で、必死に病気の娘を思うお母さんがイエスを見つけ押しかけてきた。疲労しているイエスをかばうべく、弟子達は自らのところで奮闘したことだろう。感情的な言葉の応酬もあっただろうか。いよいよお手上げになって弟子達は、イエスの名を呼んだ。イエスの対応はあまりに冷たいように思う。「子犬」の表現は差別的にも聞える…。▲異邦人伝道にはなおの時間と準備が必要だった。弟子達とはかねてから異邦人ではなくユダヤ人の伝道に赴くようにと申し合わせ事項があった。女性への最初の一言、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」を弟子達が聞いた時、その横で彼らは「やっぱりそうですよね」と納得したに違いない。弟子達の気持ちをも汲んだ言葉だったとも思う。それでもこの女性との対話は最後まで成立し、最終的に彼女は得るべき祝福を得た。今日、聖書を知る世界中の信仰者のこのカナンの女性への評価は、「うるさいクレーマー」「迷惑な訪問者」などではなく、機知に富んだ、愛のある、謙遜でユーモアをもった素敵な女性である。それは、関わりの中で、イエスキリストがそう見られ、そう引き出されたからだ。▲意地悪な見方をされれば、そう、その通りと自他共に思う。しかし、イエスキリストは見られるのはそこではない。「そう、あなたは信頼する者なんだよね。信仰があるんだよね!」と見てくださる。信仰のかけらを拾い集めて、もう一度立たせてくださる。


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