巻頭言
2010年8月


2010年8月1日

「信じる者・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

あなたたちが入ろうとしている土地で、果樹を植えるときは、その実は無割礼のものと見なさねばならない。それは三年の間、無割礼のものであるから、それを食べてはならない。四年目にすべての実は聖なるものとなり、主への賛美の献げ物となる。                   レビ記19章

イスラエルの民が新しい土地に入り、新しい作物を植えた時、彼らには神との約束があった。イチジク、オーリブ、ぶどう、なつめやし…。それらは三年間は実は取ってならなかった。恐らくは幹も細く、実は食べるには忍びない貧弱なものだった。しかし、ただほっといたわけではなく、小さな実を落とし、枝を剪定し翌年、翌年へ続くように手入れをしたことだろうと思う。年を追うごとに太くなる幹、大きくなる実は、いよいよ4年目に期待に応えて、たわわに実った。しかし、4年目もまた彼らは口にしなかった。神に捧げたのである。▲なんともよだれのでる、なんともったいない、なんとチャレンジを受けるそんな4年目を過ごしたことだろうと思う。しかし、神が伝えたメッセージは、農業の知恵でも、生活に知恵でもない。どうやったら多くの収穫を得ることができるのかでなく、利口に生きていけるかの術でもない。レビ記19章に繰り返される「わたしはあなたたちの神、主である」ということば。ありふれた生活の只中で彼らはそのことを思い出すように導かれていた。そして、結果的に、あくまでも結果的に、それが収穫を増すことへと繋がっていった。▲わたしは農家ではない、それでも今置かれている場所で、神をどのように認め、信じているのかを問われる。あわせて日々、結んでいる実を思う。なんとも神に捧げるには貧弱な実か。お捧げなんてできない、逆に迷惑かとも思う。それでも神はまるごと心配し、まるごと愛される神である。この小さな星で繰り広げられるそれぞれの歩みの一歩一歩の一部始終を神をハラハラ、喜んで見ておられる。



2010年8月8日

「はじまり・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 使徒言行録 1章

復活後の主イエスキリストとの出会い。大変な喜びがあったと思う。死んだはずの師を囲んでの交わりに弟子たちの心はやはり躍った。しかし、その時の食事の雰囲気は違ったものになっただろうか。大事なことが話されようとする時の空気はいつも独特のものがある。誰も触れなかったそれまで、どうなるかわからないこれから。目の上のこぶ、もうフタしたい出来事、しかしいつかは直面しなければならないこと。その時の食事の対話はそこへと向かった。主イエスキリストは、「エルサレムを離れず」と語り始められた。十字架の記憶がよみがえる場所だった。あの日の臭い、暗くなった空、狂った天気、砂埃、叫び・・・。それらが思い出される場所だった。そして、何よりも彼らが裏切った場所でもあった。すべてのメッキがはがされ、自分の弱さが露呈し、取り繕うことのできない場所。舌の乾かぬ間にイエスを否定した場所がエルサレムだった。しかし、そこに留まり、そこで待ち、そこから始めようと主イエスは語られた。白く塗りつぶしてから始める人生ではない。これまでのことをなかったことにしたり、今までを否定しての人生ではない。そうしなくてもいいのだと。そこにも、そこにこそ、神の息吹、聖霊の働きが豊かに現れるのだと。▲一人だと逃げたくなる。孤軍奮闘は辛い。しかし、豊かに豊かに神様は働かれる。「風は思いのままに吹く」(ヨハネ3章)。風は目には見えなくとも、波を起こし、落ち葉を舞い上げ、稲穂を揺らし、体を支え、体を抜ける。神の豊かな息吹もそのように働かれる。揺らされながら、持ち運ばれながら、押し出されながら、委ねながら、風に流されて生きるものでありたい。



2010年8月15日

「怖いものアリ・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。・・・しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 使徒言行録 2章22節〜

イエスキリストの十字架と復活。歴史を二分する事件。最初にキリスト者になった人の証言とは、そのことに他ならなかった。イエスキリストの死刑執行の日から50日経ち、時は五旬節(ペンテコステ)。自分も死刑になることを恐れた一番弟子のペトロが教会史上初の説教をしているシーンが上記の聖書箇所。「私は十字架に架けられたイエスを知っています。そして、復活したこともまた知っているのです」と証言をしたのだった。歴史の事実を風化させないためならば、教会でなくともよい。ナザレのイエス記念館、大工の子イエス資料館でよかった。しかし、職員でなくキリスト者はその歴史の事実が私たちの一人ひとりの人生にも関わりがあると証しする。▲「イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業・・・」と語った時、ペトロの脳裏には数々の奇跡がよぎったと思う。しかし、驚くべき奇跡の経験をもってしても十字架刑に脅える彼を支えはしなかった。結局、彼は最後に彼は裏切ったのだ。あの場面、間違いなく私もそうしたと思う。けれども、復活は違う。人の弱さ、限界、醜悪さが確認され、世の闇の勝利が高らかに宣言された次の瞬間復活は起こったのだった。今、ただの臆病者が復活を証しする。あり得ないことがあり得るんだ!と。そして、この後に詩篇の16編を引用する「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなくあなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず命の道を教えてくださいます。」▲ふさわしくないものが神の愛ゆえにあり得ない命の道を往く。



2010年8月22日

「なにはなくとも・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。           使徒言行録 3章

「美しい門」という神殿の門のそば。一人の足の不自由な男が毎日運ばれていた。彼は40歳であったと4章に書いてある。彼を毎日運んできた人々はやさしいボランティアか親切な友人か。しかし、後に彼が癒された時、最初に向ったのは神殿であり、運んだ人々のところではなかったところをみると、彼は人として扱われたというよりも商売道具であったのではないかと思う。毎日神殿の前に置かれ、施しを受け、ピンハネをされるただの商品、モノだった。だから彼は治ってはいけない存在だった。立ってはいけなかった、歩いてはいけなかった。できるだけみじめそうに装い、人々からの施しを乞う以外はしてはならなかった。当時の平均寿命からいって残りの数年も過ぎし40年のようにそう過ぎていくはずだった。▲「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。(4節)本当にあなたに必要なのは金か銀か。あなたは本当にそれが欲しいのか。それが欲しいのはあなたを運んでくる人々ではないのか。あなたは歩きたいのではないか。美しい門を通って神殿の奥に入りたいのではないのか。ペトロはじっと男を見つめた。そして上記の聖書の箇所に続く。▲モノが人となり、生きるものになった。右手を取られ、支えられ、きっかけを与えられて男は立ちあがり、神を賛美する者になった。自分を支えてくれた右手の数々を深く思い起こすものでありたい。そしてそのひとつひとつに更なる神の御手がある。この後、男はことさらペトロに媚を売ったのではない、3人は一緒に神殿に向ったのだった。神を賛美して生きる。そのように造られ、生かされている。「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。」



2010年8月29日

「座ってはいられず・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。           使徒言行録 7章

12弟子が12使徒と呼ばれるようになり、教会の働きも大きく広がった。使徒たちが「祈りと御言葉」の奉仕に専念できるように執事7名が選ばれたが、ステファノもその一人だった。ステファノは雑事だけをこなしていたのではなく、大胆に証をし、不思議な業も行っていた。彼のなすことは人々の目に付くこととなり、彼の説教が形骸化した神殿礼拝の批判へと移るとユダヤ人たちは怒り、神を冒涜したとして彼を高いところから突き落とし、石を投げつけて殺してしまう。キリストの十字架と復活以後、最初の殉教者がステファノだった。壮絶なリンチが始まる前、彼が見ていたのは暴徒の怒る形相を越えて、イエスキリストが神の右に立っておられる姿だった。他の聖書箇所(マタイ26:64、コロサイ3:1、ヘブライ10:12など)では、大抵、神の右でイエスキリストは座っている。しかし、この場面ステファノが見たイエスキリストは座ってはいられず立っておられたのだった。▲旧約聖書中、規範的戦いであった出エジプトの出来事。モーセは民に神の心を伝えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14:13、14)歴史の中、人が神になったつもりで、なんと多くの侵略が行われてきたことかと思う。騒々しいばかりの人の欲望と略奪。その世界にはヒトしか存在していないかのような殺伐とした闇がある。やさしく働く神のまなざしを徹底排除して作り上げた弱肉強食の地。その世界では決して負けられないと思う。しかし、「この戦いは主の戦い」として、イエスキリストが立っておられるのを見る時、人間の目からは敗北となるリンチによる死もまた勝利に繋がっていることを知る。


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