巻頭言
2009年8月


2009年8月2日

「ぜったい」

牧師 犬塚 契

イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『 わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるから だ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く 。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつま ずきません」と言った。  マルコ14章27-29節

今回は絶対に自分が正しいと思い、その理由のいくつかもすぐに頭に浮 かんできた時にかぎって、後から恥ずかしい思いをすることがよくある 。「ぜったい」って危ないんだなぁとその度ごとに反省する。▲聖書に 記録としては残っていないけれども、ペトロは最後の晩餐のこの場面で 「ぜったい」をつけたのではないかと思う。夕食時、いよいよ世を去る 時だとイエス・キリストは明らかにされた。聞いた弟子たちは恐れと不 安を抱いた。自分たちはどうなるのだろう。夕食の味は、いつもと少し 変わったと思う。だからここは、年長者ペトロの出番である。彼は断言 した。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。 みんなが散っても私は裏切らないと本当にそう思ったのだと思う。この 勇気ある一言に対して、あの時のように『すると、イエスはお答えにな った。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現し たのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」』とはならなかった 。後の出来事は、弱さも足りなさも受け入れるイエス・キリストを指し 示す。▲自分にぜったいはつけられないが、ぜったいに神は私たちを丸 抱える。 35:4)



2009年8月9日

罪の赦しの恵み

牧師 犬塚 修

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら 、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清めら れます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたし たちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正し い方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださ います。          Tヨハネ1:7〜9

私たち人間は他人に言えない苦悩や罪責感を抱えたまま生きている場合 があります。ありのままに言えるならば、どんなに楽になるかと分かっ ていても、いろいろな理由で、本当の自分をさらけ出すことが難しいと 感じるものです。ヨハネはそのような自分を苦しめる不自由な生き方に 別れを告げ、“光の中を歩め”と語ります。光とは神ご自身の事です。 自分が一人ぼっちではなく、神の中に憩う子どもと感じる自覚が大切で す。そして罪を正直に告白する事です。その人は必ず主からの赦しが与 えられます。恥じや虚栄心で隠す必要はありません。偽りの自分に別れ を告げて、主に赦しを乞い、新しい自分になる事です。愛に満ちた主は 私達のどんな深刻な罪も清めて下さいます。私達のすべての罪のために 主の十字架は鮮血で染まったのですから。 もし私たちが自分の罪を認め、惨めな裸の自分をそっくりそのまま受け 入れ、一切をゆだねるならば、問題は解決されていきます。自分の本当 の姿を隠し、良い所だけを現そうとすれば、苦しみが襲うでしょう。自 分自身により頼む事はやめにしましょう。「論じ合おうではないか、と 主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白く なることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになるこ とができる」(イザヤ1:18)



2009年8月16日

「律法から福音へ」

牧師 犬塚 契

あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれ でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。律法学者たち とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の 国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入 らせない。           マタイ23章11-13節

イエスキリストが厳しく批判した律法学者やファイサイ派の人々。彼 らは、神が良しとして与えた律法を膨らませ、変質させ、人を裁くた めの材料とし、自分の優位確立のために用いた。「神よ」と口では言 いながら、神の座にいたのは自分だった。「祈り」は「飾り」になり 、「熱心」は「強要」へと変わった。その心を見抜かれ、「白く塗っ た墓」だとか「あなたたち偽善者は不幸だ」と糾弾された。真の姿を 暴かれた彼らの心には、殺意が芽生え、十字架へとつながる。▲よろ こびの知らせの「福音」が、変質して律法になっていることがある。 どこで作られたか、あらねばならない姿ばかりが強調され、人も自分 も赦しの場でなく、裁きの場に置く。「なんで、どうして」と後悔や 原因探しのベクトルは←↓→あちこちに向き、神の前に膝を折るには 遠い。2000年前にイエスキリストが戦われた律法学者、ファリサイ人 とはこのことだったのかとふと思わされる。▲水が低いところに流れ るように、恵みもまた低いところに流れる。ここぞという通り道を通 して神様は恵みを流す。往々にして弱さを覚える場所から恵みは流れ てくる。律法は弱さを隠すが、福音は明らかにし、赦しを教える。福 音がまさに良き知らせとなるように。



2009年8月23日

「上を向いて」

牧師 犬塚 修

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上 にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いて おられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれない ようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は 、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であ るキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包ま れて現れるでしょう。       コロサイ3:1〜4

パウロの目はいつも上を向いていました。彼は地上に心を向けようと する誘惑に打ち勝つ生き方を貫きました。自分の古い自我がキリスト の十字架の血によって死に至ったこと、また自分の命はキリストの内 に隠されていると確信していました。私達の心を苦しめるものとして 心中に隠れている自我の動きがあります。これが人生に苦しみと悲し みをもたらすのです。しかし、私たちはこの自我の怖さについて案外 、盲目です。自我がうごめくと主の恵みは感じなくなります。また神 の言葉を受け入れようとしません。自我とみ言葉は相反するものです 。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろ とも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)とパウロは 書きました。マムシは死んでこそ、有益なものとなるように、自我は 死ぬ事で、人生にプラスをもたらします。地上のことで一喜一憂して はなりません。すでに私達は神の祝福を得ているからです。自我はい つも不足を数え上げますが、自我が死に始めると恵みを感謝するよう になります。それが平安の人生を形作るものとなるのです。



2009年8月30日

「試練と誘惑」

牧師 犬塚 契

「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部 族の人たちに挨拶いたします。わたしの兄弟たち、いろいろな試練に 出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」 ヤコブ書1:1-2

「いろいろな試練」とでてくる「試練」とはギリシア語で〈ペイラス モス〉と書かれ、二つの訳が可能な言葉です。一つは「試練」、そし てもう一つは「誘惑」です。神はいろいろな困難を、成長への「試練 」として用意しますが、それが時として「誘惑」として変化すること があるのでしょう。私は教会で育てられました。様々な困難に出会い 、教会に祈りに来られる方々の背中を幼い時から見てきました。時に 隠れ場として、時に神との待ち合わせ場所として、教会に来られる方 を見てきました。▲それぞれが予定外の出来事が起こり、予定外の人 生を生きていたのだろうと思うのです。それは、今でもそうです。不 慮の事故、突然の病、好まざる不和、日々の心配事、将来に対する不 安・・・。みんな思い描いた通りでなく、有限な人間の予定を越えて生 かされています。だから、有限な者は、無限な神に祈るのです。▲私 自身は、それらの限界や困難が、「試練」として捉えられるのでなく 、容易に「誘惑」になることを認めざるを得ません。神が小さくなり 、力ないもののように感じられる「誘惑」に変化するのがわかります 。それでも2000年前に書かれたヤコブの励ましが心に残るのです。困 難を信仰をもって受け止める時、それは神からの恵みの「試練」なの だよと、神に知られていないことはないのだよ、ヤコブは語るのです 。


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