巻頭言 2008年8月 |
「喜びと忍耐」
牧師 犬塚 修
わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜 びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなた方 は知っています。あくまでも忍耐しなさい。 ヤコブ1:2〜4 |
“この上ない喜び”は、試練に出会ったときに生まれます。
たとえば、熱いサウナ室に、何分間もがまんしている事は忍
耐がいる事ですが、それによって、汗と共に老廃物などの毒
素が体外に流れ出ます。その後、冷水に入ると、すばらしい
爽快感を体感し、身体は健康になります。このように、人生
において、試練の中で、がまんして生きる事は、良い結果を
もたらすと確信する事が重要です。すぐに結果を求めるので
はなく、長距離走にように、長い目で物事を見る事です。決
して焦ったり、絶望したり、あきらめてはなりません。
私達は喜びは問題のない平穏無事な状態に感じると思いがち
です。確かにそれも否定できませんが、やはり“この上ない
喜び”を得るためには“長い期間、耐え忍ぶという練達した
信仰”が必要なのです。祈りが中々、聴かれない事、ただ待
ち続けるしかない辛さ、自分の無力と限界を痛切に知らされ
る挫折と失意、そのような出来事が清められた品性、強い忍
耐心、成熟した信仰を生み出すのです。ノアは箱舟の完成に
気が遠くなるほどの年月を重ねました。アブラハムはイサク
誕生の予言を受けてからその実現に至るまで、10年以上の年
月を必要としました。そのように私達にとって、喜んで忍耐
することが勝利にいたる原動力なのです。
「都合のよい神」
牧師 犬塚 契
主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラ
エルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだ
れかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊
を献げ物としなさい。
レビ記1章1〜2節
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父 を礼拝する時が来る。今がその時である。・・・神は霊であ る。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しな ければならない。」 ヨハネ4章23〜24節 |
レビ記には、礼拝の仕方が記されている。詳しくは、当時
の礼拝の中心だった生贄の献げ方が書かれている。それは、
生贄の種類、ほふり方、さばき方、焼き方に至るまで驚くほ
ど事細かに示されている。礼拝の方法は、民主的にみんなで
相談しよう!で決めたものでなく、モーセが徹夜で考案した
方法でもなかった。人間側の打診、提案ではなく、神様側か
ら提示された方法だった。▲人間の弱さ故か、神になろうと
する傲慢さ故か、勝手に礼拝を人間側の選択に変化させては
いないかと思う。操縦しやすい都合のよい神にしてはいない
かと。結局、どっちが神かわからなくなってはいやしないか
と。▲イエスキリストは、深く心が痛み、傷ついた女性に、
新しい礼拝の始まりを伝えた。これからは、霊(プニューマ
)とまこと(アレティア)をもって礼拝するのだと。霊(プ
ニューマ)は霊とか、風、息という意味がある。そこは神の
舞台であり、神に差し出されなければ満たされない部分であ
り、神様の風が吹き、息が吹きかけられていく場所である。
まこと(アレティア)はヨハネでは、神の真理という意味で
のみ使われる。「わたしは道であり、真理であり、命である
」とヨハネ14章で言われている言葉と同じである。ならばこ
の「霊とまこと」も人間側の差出しではなく、まことである
イエスキリストを通して回復させられる神との交わりであり
、神様側から与えられる恵みなのである。圧倒的な、神の主
権と赦しと主体性的導きの中で、私たちの誠実、不誠実に関
らず、私たちは招かれ続けられている。
「風のような声」
牧師 犬塚 修
あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾 けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、 足の埃を払い落としなさい。 マタイ10:14 |
「私はあの一言で傷つきました」「心無い言葉を受けたの
で、辛いです。」……私達は心のゆとりを失うと、人の言葉
に過敏に反応してしまいます。余りにもそのままに受け止め
てしまうのです。しかし、それは理に叶った生き方とは言え
ません。イエス様の弟子達は一生懸命、伝道に励み、証しし
ました。ところが、期待したような良い反応はなく、無関心
であり、ある時は、冷たい言葉が浴びせかけられる事にも悩
んでいました。イエス様は彼らの心の傷を良くご存知で、こ
こに、解放の道を指し示されました。それはたとえ、人が無
反応であっても、少しも気にかけず、自分が信じる道を突き
進む事でした。もし、私達が人の言葉に支配されるならば、
生き方は不安定になります。「足の埃を払い落とす」行いは
「私とあなたは関係がない」と宣告する抗議のしるしでした
。はっきりと否!と言いなさいと勧められました。人があな
たの言葉を受け入れなくても、落ち込むのではなく、堂々と
、「今後はあなたの問題です。私のせいではない」と言うこ
とです。それは愛の欠けた行いではなく、自己否定、自己卑
下、自己嫌悪などからの独立宣言です。私達が「私のせいだ
、私が悪いのだ」と刃を自分に向ける事は危険です。それは
最後には相手に向かうからです。私達は、風のような声に似
ています。風は思いのままに吹きます。バプテスマのヨハネ
も「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせ
よと。」(ヨハネ1:23)と言いました。イエス様の恵みだけ
を語る風のように声となりたいものです。
「弱い時にこそ強い」
牧師 犬塚 契
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰 まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。 なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 Uコリント12:10 |
ジョニー・エレクソン・タダさんの講演会に行ったことが
ある。彼女は、17歳のとき、海水浴中に浅瀬に飛び込み、頭
を打ち頚椎を損傷して以来、首から下は麻痺して動かなくな
った。その後、リハビリによって、電動車椅子を動かすこと
ができるようになり、その日もステージの上をクルクルと回
って見せていた。▲まったく突き抜けた世界を期待して行っ
たのだと思う。自分に与えられた過酷な現実に遥かに勝利し
た講演を聞きたかったのだと思う。しかし…▲朝起きた時の
75%は、こう過ぎて行くのです」と語り始め、朝ごとに確
認させられる自分の無力さの話をした。歯が磨けず、着替え
が出来ず、化粧も、トイレもすべて、人の力に頼るしかない
自分の無力さを毎朝、嘆くのだという。実に75%は、そう
いう朝なのだそうだ。しかし、それだけで終わらない。悲嘆
にくれながらも祈る。「神様、私はあなたが必要なのです。
私は弱いからあなたが必要なのです。今日一日を生きていく
力を私に下さい」と。彼女の勝利はそこからくる。一年で3
65回ある朝の75%は涙で始まるとしても、そこから全実
存をかけた祈りが生まれてくる。その彼女が言った。「神な
しで生きている人の方が、はるかに重い障害をもっているの
です。」▲「動けずに天井を見つめる日々は、ごまかすこと
の出来ない裸の自分と向き合う毎日だった。」と星野富弘さ
んは書いている。人がメダル取れる時期は、若い頃の数年で
ある。だからその時期アスリートは懸命に努力し、人々は応
援し、感動する。若い数年の後は次第に弱くされる歩みだと
思う。人は日に日に強くなるのではなく、弱くされる。「弱
い時にこそ強い」そんな告白をしたい。
「高慢さからの解放」
牧師 犬塚 修
高慢にふるまえば争いになるばかりだ。勧めを受け入れる 人は知恵を得る。 箴言13:10 |
自分の人生を破壊させる原因の一つに高慢があります。こ
の悪しき思いは、ある時は”謙遜“の衣を着て忍びこみます
ので、本人も気づかない時があります。しかし、確実に他者
を痛めつけ、傷つけていくので、はた迷惑です。プライドが
高く、自分を誰よりも優秀と考えたり、また権力で相手をコ
ントロ-ルようとします。あまり人の勧めや忠告に耳を傾け
ません。人に対してもぞんざいな言い方をし、見下します。
口では反省しているようにふるまいますが、ホンネでは自信
に満ち、開き直ります。しかし、この自信は劣等感の裏返し
に過ぎません。高慢になると、事態が悪化の原因は自分では
なく、人のせいと思い違いをし、自分には甘くなります。ど
のようにしたらこの高慢から解放されるでしょうか。「鞭を
控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭し
を与える」(箴言13:24)とあります。高慢さに対して、甘く
、寛大であり過ぎるならば、大失敗をします。ヒトラ-に対
して、優柔不断な態度に出た英国首相チャンバレンは、後日
、自分がとった行為がいかに愚かであったことを思い知らさ
れることになりました。本当に必要のものは愛に支えられた
妥協を許さない厳しさです。それによって、心の闇に光が差
し込みます。それは痛みを伴いますが、その痛みは心の成長
をもたらすのです。イエス様も宮清めのために、愛を持って
彼らをむちで追い払われたのです。中途半端な同情ではなく
、真の愛を持って行動したいものです。「無知な者は自分の
道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う」(同12:
15)「不遜であれば知恵を求めても得られない。聡明であれば
知識は容易に得られる」(同14:6)