巻頭言
2006年8月


2006年8月6日

「礼拝と服従」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。ヨハネ8:36

「雨ニモ負ケテ 風ニモマケテ 夏ノ暑サニモ負ケテ 東ニ病気ノ人ガイテモ西ニモ困ッテイル人ガイテモ ナニモシナイ 丈夫ナ身体ニナリタクテ 健康食品ニ気ヲクバリ ウマイモノガ好キデ マズイモノガ嫌イ オカネモホシイ 着物モホシイ ソンナ私ガ仰向ケニネテイル」思わず笑ってしまう詩は、いうまでもなく、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」がべ−スになっています。この作者は星野富弘さんです。大事故のため、首から下が完全な麻痺状態にある星野さんは自力では、全く何もする事ができません。けれども、彼の描く絵と詩は多くの人々に深い感動を与え続けています。この詩にあるように、確かに私たちは誰かのために良い事をしてあげたいと願っていても実際は何もできない事もあります。まさに無力に自分の姿を見出します。「西ニモ困ッテイル人ガイテモ ナニモシナイ」とは「ナニモデキテイナイ」という痛切な叫びが隠されている気がします。だが、そのようにどうしようもなく、ただ仰向けに横たわるしかできない自分を信仰の力によって、感謝して受け入れ、主に向かって謙虚に生きようとする姿に、星野さんの復活の信仰を感じます。また叫びと歓喜が伝わってきます。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」(箴言10:22) 弱さの中でしっかりと主の祝福を見つめ、苦難から救い出される主を賛美しましょう。この月、この主に喜んで服従していきましょう。




2006年8月20日

依存心に打ち勝つ

牧師 犬塚 修

 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。                 ヘブライ12:3

私たちはみな人への依存心を持っています。依存心が全くない生活は無味乾燥で味気ないものとなるでしょう。私たちは互いに身を寄せ合って生きられる事は主から来た恵みです。しかし、依存し過ぎることは悪です。自分の責任に無頓着になり、節度を越えるほどに相手に助けを求める事は、本人の自立心を失わせます。一番の問題は、自分自身が主の助けを求めるよりも、手っ取り早く人からの援助で自己満足してしまう点です。そして信仰は衰微し、この世俗の考え方で生きてしまうようになるのです。わたしたちに不可欠なものは自分の罪や弱さと血を流すほどに格闘する真剣さです。モ-セはミデアンという荒野の地でひたすら主に向かって叫びました。その場所で彼の信仰は練り清められました。彼自ら悩み、苦しみ、耐えました。主以外のものには何も頼らず、主に向きました。このように人への依存心を絶つ事は素晴らしい事です。時折、私たちは孤独になり、疎外感に襲われますが、それは自らの信仰的自立のためにある気がします。主は罪を犯した女性に対して、その重い罪を許されましたが、最後に彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と命じられました。誘惑に負けてしいそうになる依存心に聖霊によって打ち勝つとき、私たちはさらに豊かな生き方ができるでしょう。




2006年8月27日

神という言葉を使わずに

牧師 犬塚 契

 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。            使徒言行録 4章12節 

「どうせ、みんないずれ死ぬのだから、その人の寿命を少し短くしただけなんだ!長いか短いか時間の問題だけ。それが何か?」という殺人事件の犯人がいたとして…。そんなのおかしい!と思う。でも、なんと答えよう。 「愛し合っていればいいんじゃない。だって本当に愛し合っているんだよ」という若者。度々、入れ替わる彼氏、または彼女と性交渉を続けていたとして…。そんなのおかしい!と思う。でも、なんと答えよう。 「僕なんていなくても構わない。役に立たないものなんだ。体も自由に動かなくなった。僕の世界はこのベッという病の中にある人がいて…。 「神」という「ことば」を使わずに答えることができるのだろうか。▲妻が5年ダイアリーという日記を書き始めて2年。度々、昨年の今日、昨日に何があったかを教えてくれる。「へぇーあれからもう一年かぁ〜」。そのときのことを思い出しながら、毎日の歩みの中で、ますます神が大切になっていくという事実を確認させられた。被造物として創造主を知り続けていく大切さ。ぶどうの枝は、幹につながり続けることの大切さ。そんなことを考えた先週一週間。



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