巻頭言
2004年8月


2004年8月1日

「教育と実践」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である 主を愛しなさい。 マルコ12:30

主の教育を受け、主に喜ばれる信仰の実践を目指す8月に入りました。み言か ら何点かを共に学びましょう。(1)心を尽くし----元来「心」は「心臓」を意 味していました。従って「心臓のすべてから」という非常に強い言葉です。私 たちの心臓から真赤な血潮がドクドク流れるように熱く、深く、主イエス様を 愛したいものです。主がそのように私たちを愛して下さったからです。愛とは 、神の無限の愛に対する私たちの側からの応答です。(2)精神を尽くし----こ れは「息」が語源です。つまり、腹の底から深呼吸するかのように心の極みま で、全身全霊を傾ける真実な愛です。(3)思いを尽くして----これは「物事を 思い巡らす、考えこむ」というよりも「推測する」という意味です。よくプラト ンが用いた言葉と言われています。いろいろな出来事について、思い煩うと心 はますます沈んでいきます。しかし、主の驚くべき愛の支配を確信し、豊かな 未来をあらゆる想像力を用いて、推測し、祈り願う事です。イエス様は「あな たの願ったとおりになれ」と言われます。断じて暗く否定的な考え方に縛られ てはなりません。(4)力を尽くして-----これは「能力、勢い」という意味です 。思い切って主の約束の言葉を信じ、勢いよく立ち上がる決断をする事です。 これは信仰の実践の事です。ですから、このみ言は私たちの体の働きをも表し ていると言えるでしょう。私たちの心臓が常に「ハレルヤ、ハレルヤ!」と主 を賛美する鼓動を刻み、吐く息は「感謝、感謝」という告白であり、頭は神の 勝利に満ちた未来を夢見て平安に満ち、足はすぐに立ち上がる勇気を持ってい ます。また「愛しなさい」は確かに命令ですが、それは「愛さないと、お前を 罰する」という律法的なものではなく、未来形の動詞が用いられていますので 「あなたはそうなるだろう。」という神の愛と信頼、期待の意味も含んでいる のです。



2004年8月8日

牧師 犬塚 修

力と気品をまとい、未来にほほえみかける。  箴言31:25

あの人はいつも、幸せそうな顔をしている/あの人はいつも、明るい顔をしてい る/あの人はいつも、満足そうな顔をしている/あの人はいつも、うれしそうな 顔をしている/あの人はいつも、笑い出しそうな顔をしている/あの人はいつも 、賑やかな顔をしている/あの人はいつも、平和な顔をしている/あの人はいつ も、感謝でいっぱいの顔をしている/(河野 進)。私たちはいろいろな問題で 悩んで生きてしまうものです。過去の失敗の出来事について、悶々と悔やむ事 も多く、また不条理な出来事に失望したり、悲しんだり、または怒りが込み上 げたりして「どうして…」と天を仰ぐ事もあるでしょう。苦悩と憂いはいつも 自分とそばにあって、動揺と不安を引き起こします。けれども「あの人」のよ うなイエス様を仰ぐと、新しい自分がよみがえってきます。イエス様は弱い罪 人の私たちに、厳しいお顔で責められるでしょうか。否であります。主はどう しようもない私たちの事を受容し、赦し、その結果、輝くような明るい顔で語 りかけられるのです。その喜びの表情を見ると、私たちの暗い心は晴れていき 、いつしか平安と感謝に変えられていきます。名画「モナリザ」のほほえみに も似て、イエス様は私たちに対して、永遠の愛をこめてほほえみかけられます 。私たちはイエス様に自分の重い問題をゆだね、「逃れの道」を歩みます。そ の道には永遠の命の果実や数え切れない聖霊の実がたわわに実っています。旅 人である私たちの顔も、自然にイエス様に似た明るい顔に変えられていくので す。主にあって、私たちは未来にほほえんで生きるのです。人生は良い事ばか りではなく、重荷と悲しさで悩む事があっても共に「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16〜1 8)のみ言に生きていきたいものです。



2004年8月15日

ゆだねて生きる

牧師 犬塚 修

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだ ねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 ルカ23:46

今から59年前のちょうどこの日、日本は無条件降伏によって、長く続いた太 平洋戦争は終わりを告げました。甚大な被害を与え、多くの尊い他国民、自国 民の命を奪った末の結果であり、天皇を神とする軍国主義の終焉の時でした。 日本はこの大きな過ちの悔い改めから平和憲法を取り入れ、とくに第9条は世 界に誇るべき戦争放棄の理念に基づく高邁な精神を表したものでした。しかる に、昨今に至り、イラク戦争における自衛隊派遣に見られるように、平和憲法 の改憲という言葉が飛び交うという不穏な時代になったのです。私たちは今、 将来の日本の動向を決定する瀬戸際に立たせられている感がします。このよう な不気味な戦争の足音が近づいている時代にあって、私たちはどのように歩む べきでしょうか。イエス様は十字架の上で「わたしの霊をみ手にゆだねます」 と祈り、血を吐くような叫びを残して、絶命されました。ここから、私たちに 不可欠なものは、「祈りとゆだねる信仰」と思われてなりません。問題が山積 みの場合、私たちはどうしてもその抱えている事柄の深刻さのゆえに、心を暗 くしてしまいます。また、将来が真っ暗闇に見えてきます。しかし、イエス様 は激しい苦しみの只中で、「父よ、ゆだねます」という言葉を残されました。 「たとえ何が起ころうとも、主よ、あなたのご支配を信じます、信じぬきます 」と祈られたのです。この世界には、私たちを絶望にいざなう要因があふれて います。失望落胆の出来事が渦まいていますが、キリスト信仰はそれに打ち勝 つ強い力です。主にゆだねるとは、何もしないことではありません。自分がで きる最善を尽くし、その結果、何が起ころうとも希望を失わず、将来への夢を 持ち続けることです。決して失望してはなりません。この世の悪を見逃さず、 また、自分の思い煩いや罪、臆する霊から解き放たれて力強く生きたいもので す。



2004年8月22日

4つの重荷

牧師 犬塚 修

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげ よう。                     マタイによる福音書11:28

ここで使用されている「重荷」@とは「困難、煩い、面倒、(疲れ果てるまで )労し苦しむこと」の意味です。これらのものを背負ったまま、何一つ隠しだ てもしないで、癒し主であるイエス様の所に飛び込むことです。そうするなら ば、必ず安らぎと解決が与えられます。またほかにも「重荷」という原語があ ります。A「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められて いる競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ12:1)の場合です 。これは「邪魔、障碍になる重荷、かさばったもの、ぜい肉」のことです。信 仰の成長に邪魔になるものを思い切って、投げ捨ててしまう勇気を持ちたいも のです。私たちには実は、無用なものがまだ多くある気がします。それらに支 配され、不自由になっている事はないでしょうか。執着心や欲心などをかなぐ り捨てることです。B「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」(同5節)これ は「実際に担いでいる荷、積んでいる積荷」のことです。人生において、誰に も依存せず、じっと耐え忍ぶべき重荷があります。それについては、イエス様 にゆだね、感謝、感謝の心で自分の十字架のように考えて担う道です。その人 は重荷から多くの真理を学び得ます。C「互いに重荷を担いなさい。そのよう にしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)こ の「重荷」は「負担、労苦、威厳」です。これは「共に生きる群れである教会」 と深く結びついているみ言です。私たちは共に生きる生命共同体のメンバ−と して、お互いの負担を分かち合う者とされています。教会の弱さや欠乏を自ら 背負い、使命と責任を全うしようとする誠実な生き方が霊的な威厳をもたらす でしょう。それは4人の人たちが中風の男を担架に乗せてイエス様の所に持ち 運んでような熱心な愛の生き方です。これらの4つの重荷を明確に区別する事 です。



2004年8月29日

ただ主の恵みによって

牧師 犬塚 修

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊か にくださる神がほめたたえられますように。   コリントの信徒への手紙二1:3〜4

私たちは今日、教会組織25周年記念礼拝という喜びの日を迎えました。これ までの歩みを振り返りますと、神の恵みがいかに大きかったかを感謝せずには おれません。どうしようもなく小さく、弱かった私たちにもかかわらず、神は すばらしい愛とあわれみを与えて下さいました。パウロは「わたしは弱さ、侮 辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足 しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリント二1 2:10)と告白しています。またダビデは「主は羊飼い、わたしには何も欠ける ことがない」(詩篇23:1)と感動の叫びをあげています。ふじみ教会の主は、正 にイエス様ご自身でした。これからもその通りです。また、忘れてはならない 事は、この教会のために、尊い犠牲を払いながら、良い奉仕を捧げられた愛す る兄姉の存在です。主は時に叶って、すばらしい人々をふじみの群れに送って 下さいました。彼らの尊い献身的な働きがなければ、今の祝福に与ることはで きなかったでしょう。その中には、すでに天国に凱旋された多くの方々がおら れます。お一人一人の思い出をたどると、感謝がこみあげてきます。兄姉の命 がけの信仰が、ふじみの礎となり、大きな祝福の源となったのです。また、後 に続く私たちも彼らの信仰を良き模範として受け入れ、またみ言葉に教えられ て、常に心から悔い改め、霊が砕かれ、心を一つとして、共に生きましょう。 「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極 度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに わたしたちに願い出たのでした(コリント二8:1〜4)新たな信仰の歩みが祝福さ れますように。


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