巻頭言
2003年8月


2003年8月3日

「伝道と教会」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。1:3 信仰が試されること で忍耐が生じると、あなたがたは知っています。ヤコブ1:2〜3

○星野富弘「もちろん、その時、その時の苦しみはありますけど、でもそれがまとまって 束になると、とてもいいことに変わっちゃうんです」
○三浦綾子「そうですよね。マイナスの数字は多ければ多いほど、プラスになったとき大 きな数字になる。「苦難」も「幸せ」であると、ふだん平凡なこともよくなるし、…花の 美しさが何倍にも感じられたり、そのへんが不思議なくらい、やっぱり、全部が変えられ るということなんでしょうかね、キリストと出会うということは」(対談集より)

これは「幸せ」について教えられた一文です。「苦しみもいいことに変えられる」とは、聖霊 に満ちた美しい言葉です。私たちはいろいろな苦難に出会います。けれども、そこで、空虚 感や悲哀感に襲われることなく、それもプラスととらえて生きるならば、私たちの心は信仰 の大空に飛翔することができます。両氏は、多くの苦しみを抱えた人でしたが、キリストに 出会うことで、思いが一転し、すべては益になるという確信を持って生き抜かれました。教 会とは、彼らのようにイエス様に出会った者たちの群れです。教会と共に生きる私たちは、 辛く苦しい事のすべてを自分の心の中にある( )の中に入れてしまい、その冒頭にプラス すなわち十字架をおきます。( )の中にどんなに大きな罪や失敗や悲しみがつまっていよ うとも、否、それが大きければ大きいほど、祝福は増すばかりです。−1000は一瞬のうちに キリストによって、+1000に変わるように。天に召された押川静枝姉は、物事をプラスの視 点でとらえる人でした。又ふじみ教会を自分の霊の家族として愛してやまない教会愛にあふ れた人でした。私は天国でお会いする日を楽しみにしています。



2003年8月10日

永遠にいたる祝福

牧師 犬塚 修

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリ ストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えら れている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。   第一ペトロ1:3〜4

T先生は週3回人工透析に通っておられます。それをもう13年に及んでいるのです。それは、 想像を絶する大変な日々であるでしょう。ところが、先生は「これは私の人生の勲章です」と 力強く語られました。明治が生んだ思想家内村鑑三は愛娘るつ子さんを亡くした時、墓地の前 で「るつ子さん、ばんざい!」と叫びました。鑑三は「新たに生まれさせるという永遠にいた る希望」を抱いていたのです。ゆえに、悲しい死もその復活信仰を切り崩すことはできなかっ たのです。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めてい ます。…死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、…他のどんな 被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き 離すことはできない」(ローマ8:37〜39)とパウロは神の愛の壮大さに感嘆しています。キリス トを信じるとは、現実だけを見つめて生きるのではなく、神にある永遠の祝福を信じて生きる ことです。真珠は、アコヤ貝が取り込んだ異物によって刺激され、真珠質を分泌することで作 られます。優雅な銀色、美しい光沢は、貝の労苦と痛みの中で生まれていくものです。そのよ うに、いかなる現実が私たちの目の前に立ちはだかろうと、天にある霊の財宝を得る希望を持 って、輝く未来を確信する事です。主の祝福は、私たちの信仰というパイプを通して与えられ ます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝って いる」(ヨハネ6:33)イエス様が救い主であると信じて生きるならば必ず救われます。



2003年8月17日

教会の使命

牧師 犬塚 修

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にあ る頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべ てを満たしている方の満ちておられる場です。エフェソ1:22〜23

「今のままではダメだ…」という否定的な考え方は私たちの心を腐らせる危険な芽となる場合 があります。なぜならば、いつまでもぐちと不平が温存されてしまうからです。この世が夢の ようなユ−トピア世界になる事は難しい事です。人間が生きている所にはいつも問題が起こる からです。しかし、その問題を抱え込み、裁き、こうであるべきなのにそうでないと攻撃する ことはいよいよ問題をこじらせる結果となります。今年は戦後58年目となります。なぜ、日 本は侵略戦争に突入していったのでしょうか。その根本的な原因の一つは、「貪欲」にあった 気がしてなりません。当時の日本は飢えに苦しんでいた訳ではなく、むしろ、目覚しい経済大 国になっていました。しかし、天皇を現人神とした思想は貪欲の思いに駆られ、アジア侵略へ と牙を向けたのです。今、生かされている事は何という感謝だろうか!という謙虚さは微塵も なく、不当に略奪することを正当化していきました。キリストの教会の使命は、自らのうちに も隠れている貪りや傲慢さ、不平などという否定的な害毒に別れを告げ、新しい生き方を指し 示す事にあります。この清新で高邁な精神は真の神を、謙虚になって礼拝していく生き方から 生まれていくものです。パウロは教会の不十分さや弱さを熟知していたにもかかわらず、大胆 にも「すべてを満たした所」と明言しています。それは、パウロの壮大な信仰的な視点からの 言葉でした。目先のことで、一喜一憂する事なく、巨視的なものの見方で、現実を理解した時、 そこに、神のあふれる恵みと赦しが満ち溢れている事を発見したのです。私たちは人間の傲慢な 自己神化を許さず、真の神を礼拝し続けなければなりません。



2003年8月24日

幻と夢を見る教会

牧師 犬塚 修

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなた たちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』使徒言行録2:17

アメリカの映画監督のスピルバ-グは夢見る少年でした、幼少期、ユダヤ人であると いう理由でいじめられ、また家族の不和に悩み苦しんだ少年は、強く生きるために 将来の夢を見ることを命の糧としたのです。21歳の時、映画界に飛び込み、そこ で、夢とスリルに満ちた作品を生み出していきました。映画「ET」のシ-ンの中で 巨大な月が登場しますが、それは彼の夢を表現していると言われています。

私たち教会にとっても神の栄光を現わす目的で、幻と夢を心のキャンバスに描く ことは大切です。「真を求めんと欲するものは、他のざわめきも談笑もかえりみず、 犀(さい)の角のごとく、ただまさに独り行くべし」(犀角経)という言葉がありま す。夢を実現するためには、まず自分の心の核を強くしなければなりません。私たち は人の奴隷になってはいけません。その甘い言葉に耳を傾け、自分の人生を棒に振っ てはなりません。悪には蛇のような妖しい魅力があるので、つい誘惑されてしまう のです。そのような時は、主に祈り、何が神のご計画かを深く求める事です。 そして、これだ!という確信が与えられたならば、その時こそ、犀の角のように、 毅然として前に向かって突き進むことです。試練や苦悩が私たちの人生を暗いもの とするというよりも、むしろ、後ろ向きに弱々しく考えたり、悲観的に思い込んで しまうことがよほど危険なことです。一喜一憂して、現実に振り回され、自分自身 を失わない事です。「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたし を強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:12〜13) 神は私たちの最大の味方です。臆したり、恐れることは断じてありません。



2003年8月31日

パウロの祈り

牧師 犬塚 修

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かに なり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめら れるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、 神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」 フィリピ1:9〜11

パウロは物事の本質を鋭く見抜くべきことを教えています。もし、私たちが、すべてのことを無分別に 受け入れたリ、うのみにした情報に従うならば、正しい選択をすることはできません。イエス様は「へ びのように賢く、はとのように素直であれ」と言われました。では、パウロはどのようにして、鋭敏な識 別力を会得したのでしょうか。それは深い自己省察にありました。「わたしは、自分のしていることが 分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないこ とを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っ ているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:15〜17)と深刻 な自己の内面をえぐって書いています。これは痛烈な叫び、魂の告白です。パウロは自分こそが絶 望的な罪人と悟り、自我を敢然として捨て去ろうと決意しています。そして、ただキリスト信仰に生 きる道を選び取ったのです。それゆえに、パウロは、誤った思い込みや邪念や思考から脱却し、澄み 切った判断力を培っていったのです。自分は正しいと思い込むことは危険です。なぜならば、それは、 自分を神の座に置く誘惑に屈するからです。私は罪人の頭ですと、叫んだところに、パウロの卓越性 があります。そして、清く生きる力を神から与えられ、豊かに雄々しく生かされたのです。


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