巻頭言
2002年6月


2002年8月4日

 「礼拝と戦い」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

 万軍の主は、そのように、シオンの山とその丘の上に降って戦われる。翼を広げた鳥の ように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救 われる。
イザヤ書31:4〜5

 8月に入り、炎暑と共に戦争の悲劇について考えさせられます。1945年8月15日、 日本は戦いに敗れました。敗戦に敗戦を重ね、最後は、竹槍で敵に抵抗しようとした無謀 な精神主義ももろくも崩れ去りました。この大戦において、数多く無辜の命が無残にも泥 にまみれ、永久に失われました。神は十戒の中でこう宣言されました。「汝、殺すなかれ」 と。人の命は神の似姿に創造されたものですから、かけがえのないものです。人の命を奪 うことは、神を傷つけることに等しい重い罪です。戦争は人間の弱さを露呈させます。非 人間性へと誘うのです。当時の日本は狂気に陥っていたとしか言いようがありません。無 計画、無謀、硬直した好戦的思考、命に対する無感覚、連帯性の欠如など、日本は負ける べくして負けたのです。とりわけ、生ける神を畏れず、自らを神国日本と豪語した傲慢さ が、命取りになったのです。上官の命令のもと、兵士は魂を奪われ、一個の機械人間と堕 しました。今、有事法制が大きな問題です。小泉さんは「備えあれば憂いなし」と語りま した。だれに対する備えなのでしょうか。この言葉の問題性は、自国民の人命に対する無 関心さと無配慮、他国民に対する不信感、敵意が見え隠れしている点にあります。交わり の根本は相手に対する信頼感です。これなくして、本当の交わりは築きえません。もし、 お互いの間に、平和の神がおられるという確信があれば、相手に対する敬意や友情が生ま れてきます。神は翼を広げて、私たちを迎え入れ、平和と赦し、さらに和解の道を敷かれ ました。その実証はイエスキリストの十字架のあがないと復活にあります。万軍の主の絶 大な守りに信頼し、強く信仰に生きて行く事です。



2002年8月11日

 永遠の青

牧師 犬塚 修

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
マタイ5:4〜9

 この山上の教えと言われるイエスの言葉が私たちの心にこだまします。ここに人はいか に生きるべきかの指針が鮮やかに示されています。今から6年前、妻と共にイスラエルを 旅行した際、この教えが語られたと伝えられる山に登りました。山とは言っても、小高い 丘のような所でしたが…。憧れていたそのところにようやく到着した時、私は息を呑みま した。なぜならば、その丘のかなたにはガリラヤ湖の景色が巨大な広がりを見せ、湖の深 い青と天空の青とが一つに溶け合い、その境界線が消えてしまっているかのようでした。 その瞬間、このイエスの教えの意味が、強く迫ってきました。イエスはこの美しい青をバッ クにして、上の言葉を教え始められたのです。すべてを包み、溶かすような永遠を示す美 しい青の世界を見た弟子達は、今のどんな悲しみも苦労も、いつの日か、神の恵みの世界 に吸収され、必ず祝福に変えられていくことを悟った事でしょう。たとえ、いかなる試練 や苦悩があろうともイエスを見つめ、信じて従うならば、幸いな実を結ぶという真理を会 得したと確信します。悲しみは絶望として終らず、その人は慰められる人と変えられます。 戦いではなく、平和を実現しようと努力する人は、その清い生き方のゆえに、神の子とし て祝福を受けていきます。そして、すべてのものが一つにされていくのです。



2002年8月18日

 「ユートピアと神的現実」

牧師 犬塚 契

「そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマ ルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが…」使徒言行録15:39

 上記の聖書の言葉は同じ神を信じ、同労者として共に世界伝道に向かったパウロとバルナ バが一人の青年のことで「激しく衝突」するシーンである。世界で始めて宣教師を送り出 すという歴史的偉業を担ったアンティオキア教会で、どうやら仲たがいがあったらしい。 ▲どう書き始めれば、誤解やつまずき、隠れ蓑にならず、上手に書けるのか分からないが、 教会で起きてくる人の手に余るように思える課題をどう理解するのか思い煩うことがある。 かつてディートリッヒ・ボンヘッファーは「教会生活はユートピアなのではなく、神的現 実なのである」と書いた。教会にも課題が与えられている。あえて「問題」ではなく「課 題」。それも人のガンバリや能力で解決できない課題、神なしにして解決をみない課題が 与えられている。信仰が試されるというよりも、人の限界を超えているから信じて歩むし かない。けれども最近強く思う。神は愛する神の子たちがこの地上で限界にぶつかり「神 に頼るようになること」を喜んでいるのではないだろうか。教会はユートピアではないか もしれない。けれども、「神的現実」をキリスト者たちが共に告白し合い、祈り合い、泣 き合い、励まし合い、頼り合いながら、神に向きを変えて歩む教会でありたい。▲あるア ルコール依存症のクリスチャンは大切な事を語っている。「おかしなもんだね。自分の一 番嫌いなところ、つまりアルコール依存症ということを、神はご自分のもとに僕を連れ戻 すために使った。だからぼくは、神なしで生きられないことを知っている。…たぶん神さ まは、信じる者たちが神に頼ることを、また地上にある神の共同体に頼ることを教えるた めに、ぼくたちアルコール依存症患者を召しておられるのだと思う」



2002年8月25日

 「日常」

牧師 犬塚 契

@「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を 受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。」
使徒言行録17:11
A皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもそ の子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神で ある方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりませ ん。
使徒言行録17:28〜

 パレスチナの田舎で起こったイエスの暗殺、十字架刑という出来事が、旧約聖書の成就で あり福音(GOOD NEWS)として当時の全世界に広まっていく過程を描く使徒言行 録。「劇的」、「ダイナミック」、「急進的」、そんなイメージが使徒言行録にはある。 初代教会の始まりから、パウロの伝道旅行へと使徒言行録は展開していく。わずか28章 の紙面で読むと早いテンポに感じるが、その中にもそれぞれの生活の場があったことを思 う。@の上記の聖書の言葉にもそれを感じる。毎日の祈りの積み重ね、神への求め、信仰、 苦悩、喜び、嘆き、感謝…それぞれの日常がある。そして、まさにその日常のただ中に神 の働きがある。おそらく、パウロは伝道していた時だけイキイキとしていたのではなく、 テント造りにいそしんでいた時も、牢獄で讃美したように、讃美しながら歩んだのだと思 う。▲Aパウロは説教の中でクレテ人エピメニデスの詩を引用した。「…我らは神の中に 生き、動き、存在する…」。異教の神々を主題にした詩を大胆に引用しつつも、パウロは 他でもない、まことの神こそがそうであると明らかにした。旧約時代、神は幕屋・神殿に 栄光を現した。イエスキリストの時代、神は人々の中に紛れ込んだ。新約聖書以後、神は 私たちの内に住むと約束された。クリスチャンたちはそれを日常の歩みの中で確認してい く使命が与えられている。それがクリスチャンの醍醐味。


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