巻頭言 2001年8月 |
「平和と祝福の交わり」月間を迎えて
牧師 犬塚 修
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように 与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27) |
この世が与える平和とは「何の問題もない平穏さ」と言えるかもしれません。しかし、イエス様が
言われる平和はそんなものではありません。たとえどんな悪い状態にあっても、なおも変わら
ない平和の事です。病気になり、事故に遭い、不運に見舞われ、大失敗して落ち込んでいても、
それでも奪い取られない平安です。はたして、そんな平和がありえるのでしょうか。ある一枚の
絵の話しを聞いたことがあります。それは、荒れ狂う大嵐の時でした。海辺近くの岸壁には、
鳥の巣がありまして、余りの恐ろしさに数羽の雛は鳴きつづけていました。しかし、その絵の
題名は「平安」ということでした。それは、鳴く雛のそばに親鳥がいたからこそ、平安だった
のです。環境は最悪で、絶体絶命の大ピンチであるにもかかわらず、変わることのない平安が
あります。父なる神様が私達と共におられるからです。主は自ら、十字架にかかり、あがない
の死を完成し、永遠の正義を打ち建てられました。それは、天と地を一つに結びつける完全な
救いのみわざでした。それによって、真の平和が生まれました。「正義が造り出すものは平和
であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、
安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。」(イザヤ32:17〜18) この平安を得るため、心か
ら熱く神に祈り求めたいものです。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、
感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あら
ゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るで
しょう。」(フィリピ4:6〜7)この世の平和は、何か不快な事が起こると、すぐに崩れる危険性
があります。しかし、神の平安、キリストの平和は信仰によって、永遠に至るまで続きます。
敗戦記念日を目前にして
牧師 犬塚 修
貪欲は偶像礼拝にほかならない。 (コロサイ3:5) |
小泉氏は首相としては靖国神社に参拝すべきではありません。日本憲法では「政教分離」
をうたっています。それに抵触する行為をする事は憲法違反です。明治維新からの日本
の歴史は「政教一致」の感があります。神道と結びついた政治は、独善的となり、硬直し
た天皇絶対主義へと傾斜しました。素朴なはずの神道は、いつしか国家神道として変質
し、軍国主義の精神的支柱となりました。そして、平和の民であった日本人はついに貪
欲の輩となり、アジア諸国を侵略し、とりかえしのつかない罪と悪行を犯してしまいま
した。大東亜共栄圏の美名の下、強引に属国化し、無謀にも神社参拝を強要しました。
天皇を現人神として礼拝の対象とするようにしたのです。日本の国民も、なすすべもな
く、ただ服従する事を強いられました。もはや、反抗することなどできないほどに天皇
の権威は絶大なものとなったのです。当時の国民は臣民(天皇のしもべ)としてしかあり
ませんでした。抵抗するならば、非国民として村八分にされ、汚名を着せられたのです。
今また、同じ道を歩むような危惧の念を感じます。今、不況問題ばかりを、マスコミは
取り上げていますが、国の将来を考えると、この靖国問題が、恐ろしい火種を宿してい
るのです。小泉氏のような自国の戦争責任や歴史感覚が貧しく、かなり情緒的な人を人
気者として祭り上げて行くマスコミの甘く曖昧な姿勢には失望します。つくる会の教科
書も問題です。これは、日本の歴史的な罪については、非常に鈍感であり、故意に歪曲
化しています。自らの罪を隠蔽する卑劣さを感じます。東京都では、2、3の養護学校
にて採用される事となりました。そのやり方は姑息です。石原氏の思惑通りなのでしょ
うか。一応採用という既成事実を作り、後は、なし崩しにしていこうという魂胆かもし
れません。今こそ目を覚まし、貪欲と罪の行ないに対して反対する時です。悪に屈して
はなりません。
戦争における罪
牧師 犬塚 修
主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ お前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、 お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。お前たちの手は血で、指は悪によ って汚れ唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。(イザヤ59:1,2) |
戦時体制の中で、日本軍は中国において731部隊を編制し、現地の人々をマルタ(丸太)
と呼んで人体実験をしました。それは許されてはならない残忍な犯罪でした。なぜそのよ
うな非道な事ができたのでしょうか。
第一の理由は洗脳教育にあると思います。天皇の赤子として生きる事、日本のために命を
捨てる事が美徳とされ、、その目的遂行のためには、いかなる犠牲もやむをえないという誤
った風潮がはびこっていました。第二は隔絶された環境に置かれたという点です。遠く日本
を離れた若い医者達は、一つの所に押し込められ、ただ実験するだけが使命のようにさせら
れました。その結果、人間としての良識も死んでいったのです。第三は偏狭な歴史観の主張
です。明治維新以後、天皇が現人神として君臨し、世界の強者になるという誇大妄想の思想
にとりつかれました。そして事実「八紘一宇」をモット−として、アジアを植民地化していこ
うとしました。そこには共に助け合って生きるという隣人性という視点は全くありませんで
した。ただ思い上がりがありました。その結果、アジアの同胞に対して、思いやりを持つど
ころか、軽侮の気持ちを抱き、人格のある生きた人間としてではなく、もの、マルタと見な
したのです。ナチスだけを一方的には責められません。第四は無責任性です。当時の責任者
であった軍医石井四郎は戦後、実験資料を米国に引き渡すという裏取り引きをして、裁判を
受ける事なく、生き続けました。自らが犯した故意の罪については責任とらない放埓さは今
も、日本中に充満しています。自分の悪行と恐ろしい罪を知り、心から悔い改めて生きる事
です。そうする事で新しい世界が生まれます。
然りによって
牧師 犬塚 修
神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではあり ません。この方においては「然り」だけが実現したのです。 (第二コリント1:19) |
私達は自分の行動を顧みて、良かったとか悪かったとかをすぐに判断するものです。
また、愛に欠けた行為に走ったり、誤解を与えるような失敗を犯した時は、一人で
悶々とする時があるかもしれません。「もっとこうすれば良かったとか、もう少しや
り方があったものを…」と後悔もします。しかし、このように、いつも自分の行為に
一喜一憂したりする生き方は実に不安定です。このような生き方は、たえず人の目
や評価にさらされており、自意識過剰にならざるを得ません。パウロはこの自意識
の問題を主イエスを然りの主として信じる事で、克服しました。彼はたとえ、自分
がうまくできなかったとしても、それで自分に対して「否」と言って、存在感の不安
に襲われる事はなりませんでした。それはひたすらイエス様を見つめて生きたから
です。彼にとって主とはすべてを益に変えるお方でした。ゆえに、自分は完全に成
し遂げるべきだとは考えませんでした。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれ
ようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で
自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたし
が義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」(第一コリント4:3〜4)
これは一見開き直りに見えますが決して、そうではありません。パウロは自分の限
界を良く見ぬいていました。そして、自分のベストを尽くしたならば、あとは一切
をイエス様の御手にすがりつくしかないと腹をくくったのです。この思い切った決
断が良かったのです。失敗を思い煩うように仕向けるサタンの巧みな魔手から逃れ
ねばなりません。どんな事も主にあって然り!と宣言して生きていく事です。あな
たの守りは完全ですと言って生きましょう。その主告白からすばらしい未来が開か
れていくのです。