巻頭言
2000年8月


2000年8月 6日

「福音の前進」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためである。(フィリピ1:12 〜13)

今年のファミリ−キャンプも、主のすばらしい恵みの内に終わりました。講師の川内先生の説教 で「時計はどんなに高価なものでも、人間の腕に巻かれてこそ、価値が出てくるように、人間も 神のものとなり、神に役に立つ生き方をする時、はじめて本当の生きがいを感じるのです。」と 語られました。確かに信仰は、自己満足や幸福追求だけのためにあるのではありません。本当の 幸福は、自分を捨て、主に従う時に味わうものといえます。「わたしについて 来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救 いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」 (ルカ9:23〜24)

先生は御自身の体験を赤裸々に語って下さいました。自分の家に起こった信じられないような試練、 それが10年以上も続いた時、さすがに疲れ果て「主よ、いつまでですか。なぜこんなことが起こっ たのですか」と主に叫ばずにはおれなかったそうです。長い期間、悲しみと絶望で苦しまれたのです が、ある朝、突然神の奇跡が起こり、二人が完全に立ち直ったという生々しい証しは私達の胸を激 しく打ちました。

ここから、私たちは主の支配には決して偽りも誤りもない事を学び得ました。真 剣に主を求めて生きるならば、主は必ず、時が満ちた時、逃れの道を与えられるのです。 パウロは言います。「わたしが監禁されているのはキリストのためである」と。つまり、否定的な出来事 さえも福音が前進するためにあると、確信した時、私たちはつぶやきや、将来に対する不安から解放され るのです。そしてすべてを感謝して、そのままに受け入れる事ができるようになります。これこそが 平安と勝利の前進です。




2000年8月13日

神を信じて生きる

牧師 犬塚 修

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 あなたはいかなる像も造 ってはならない。 (出エジプト記20:3)  

無数のアジアの民衆と自国民の命を奪った悲惨な大戦争が終わって、55年が過ぎました。 「八紘一宇」という錦の御旗を掲げ、猪突猛進に暴走した侵略戦争は、空しさと深い傷痕を 残しました。なぜ日本は無益な戦争に突っ走ったのでしょうか。

その原因の一つは人々の心の風景がありました。当時の知識階級は西欧に対する複雑な感情 に支配されていました。科学文明の遅れを痛感した日本は「早く追いつけ、追い越せ」という スロ−ガンを掲げ、必死でがんばり続けました。また、無理な計画を実践しようとして、焦 りました。そして次第に自分なりのペ−スを失い、敗北者意識に支配されるようになりました。

日本には独自の美、特性、伝統、国民性があったにもかかわらず、そのような美点を無視し、 西欧の真似をし、かけがえのない自尊心を失っていったのです。多くの人々を地獄の引きずり 込む殺し合いに落ちていきました。また根本的な原因は天皇制にありました。天皇を神として 崇めることで、国民は自由人ではなくなりました。それは臣民(天皇のしもべ)としての存在しか 許されないということを意味しました。これが人間性の否定となり、私たちは自分で決断し、 かつ責任を担うという事がなくなり、むしろ、無責任さ、優柔不断さが培養されました。 それは今日まで、続いています。もはや自由人としての正義感や良心も失い、機械人間と化し ていきました。

私たちは、主のみを神として信じ従う時、自由人としての尊厳性を新しく回復するのです。 「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。神服従の道にこそ、 未来への新しい希望があるのです。




2000年8月20日

最後まで耐え忍ぶ者には

牧師 犬塚 修

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束され た命の冠をいただくからです。 (ヤコブ1:12)  

シドニー・オリンピックまであと二ヶ月ほどになりました。今までのオリンピックの中 で、とても感動した名シーンの一つに、1984年のロスアンジェルス大会の女子マラ ソンがあります。このレースは炎天下のもとで行われ、スイスのアンデルセン選手は体 調をこわし、散々な成績に終わりましたが、最も深い感動を与えた選手となりました。 彼女はスタジアムの門をくぐった瞬間から、極度の疲労感に襲われ、意識を失いかけ、 夢遊病者のようにフラフラとなったのです。しかし、決してレースをやめようとはせず、 最後まで自分の足でゴールにたどり着きました。その死をかけたような一途な姿に、 私は涙が流れて仕方がなかったことをよく覚えています。

そこに人間としての高貴さ を見たからです。どんなに辛く苛酷なレースであったことでしょう。余りの厳しさに何 度も止めようと思ったことでしょう。しかし、彼女は決して勝負をあきらめることはしま せんでした。彼女こそ真の勇者でした。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」 (ヨハネ黙示録2:10)とあります。私たちの信仰生活もマラソンによく似ていま す。人生は短期決戦ではありません。人生の競争で大切なことは、トップに立つことに あるのではなく、最後まで耐え忍んでイエス様に従うことです。どんな情けない姿であ っても、弱くおぼつかない歩みであっても、み心の道を途中であきらめないことです。 ひたすら主に向かって歩き続ける事です。それは自力でせよというのではなく、主の御力 でなることです。主は共に歩み、励まし、勝利を得させて下さいます。




2000年8月27日

利己愛と自己愛

牧師 犬塚 修

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である 主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。 『隣人を自分のように愛しなさい。』 (マタイ22:37 〜39)  

「福音の前進」は福音を担う一人一人によってなされていきます。もし、私たちが福音の真理に 立って歩むならば、どんなに感謝なことでしようか。それは神への愛と自己愛、また隣人愛に 生きることです。利己愛と自己愛とは似ているようで、根本的には全く違います。 

利己愛は相手に要求する愛です。「こうしてくれない、ああしてくれない」と言ってつぶやき、 人生を否定的に考えます。これは根っこに利己心が生きています。私たちもこのように生きて しまうことがあります。これは「奪う愛」と言えるかもしれません。

一方、自己愛は「与える愛」です。相手の立場をよく理解しようとつとめます。そして神や 人に対して「感謝です、感謝です」といつも、口癖のように言います。これはすべての出来事 を益と考える生き方です。たとえ、どんなに辛い時でも「大丈夫!道は開かれる。私は神にす べてを任せよう」と言います。

もし、私たちが利己愛に生きるならば、人生は悲しいものとなるでしょう。しかし、もし自己愛に 生きるならば、すべての出来事を「ばら色のメガネ」で見ることができ、感謝のあふれるようにな るのです。すべては、神の愛の支配下にあると確信することです。十字架は恐ろしい死刑であります。 けれども、私たちにとって、十字架は栄光のしるしとなりました。私たちにとって、神のみ心は愛と 善の結果のみをもたらすと信じて歩みたいものです。



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