巻頭言
1999年7月


1999年7月 4日

「惜しみなく主に献げる教会」を目指して

牧師 犬塚 修

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、 彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22:2)

7月のテーマは「奉献」です。この言葉の反対語は一体何でしょうか。最近、私は あえて「自己中心性」と考えています。つまり、自分を中心として宇宙を捉えて いく思考です。もし、私たちが、誰よりも自分を大切にするならば、どうしても 自分を守ろうとします。自分の健康、名誉、成功、人気、地位、家族、財、さらに 命をこよなく愛しますので、これらの価値にしがみつきたくなるのではないでしょうか。 これらを一つ一つ奪われることを恐れ、必死で取り戻そうと躍起になることでしょう。

しかし、イエス・キリストはハッキリと語られました。「自分の命を救いたいと思う 者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う。」 (マルコ8:35)これは逆説です。そして人生の心理です。

幸福の青い鳥は必死で 求めれば求める程、巧みに逃げ去りますが、静かに自分のなすべきことに打ち込んでい ると、安心して近寄ってくるのです。

アブラハムは最愛の子イサクを奉献するよう にと、神に命じられました。それは心砕かれるような苦しい試練でした。「なぜ 神はこんなことを…」と内心絶句し、絶望したことでしょう。しかし、彼は、 心を定めてモリヤの山に出かけます。それは「自己中心性」からの脱却の旅でした。 彼にとって最高の価値は「自分自身」ではなく、むしろ、「神の御手にある自分」 ということに目覚めたのです。




1999年7月11日

行間には、何もないから U

牧師 犬塚 契

(43節)そのとき、御使いが天からあらわれてイエスを力づけた。 (44節)イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、 その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」 (ルカ22:43〜44)(口語訳)

43節と44節の順序が逆なら聖書はわかりやすいのだ。苦しみもだえているときに 天使の登場で心が軽くなる。そんな万人が納得のいくストーリーなら話が早いの にと思う。 御使いが力づけたのなら、元気になってもよさそうなものじゃない か!なのに御使いが来た後にも、苦しみもだえ、血のような汗を流している。理 不尽極まりない。実際、写本の中には43,44節を削除しているものもある。御使 いは何をしてくれたのか。神は本当に力づけてくれるのか。そう思いたくもなる。

  しかし、信仰とは何だろうか。神を、何でもかなえてくれるロボットのように する事でない。自分の望む通りの世の中になることでない。信仰とは、神に自分 を捧げる生き方である。

人は、石がパンになることを奇跡というかもしれない。 海が分かれることを奇跡とするかもしれない。けれども、弱い私たちが今の現実 を神に委ね、切に祈っていく事こそ奇跡だと思うのだ。なかなか、変わらない現 実を見つめつつ、それでもなお神にすがりついて生きていくことこそ奇跡なのだ。

「わたしにつながっていなさい」と言われたイエス様につながっていくこと、それ がたやすいことならあえてこんなこと言わなかった。イエス様は御使いに力づけら れ、ますます祈られた。この行間に奇跡の大逆転があるのだ。弱い人間が祈りとい う神への応答にはいるとき、この行間には書かれなかった奇跡がすでに起きている のである。



1999年7月18日

惜しみなく主に捧げて

牧師 犬塚 修

そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエ スの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 (ヨハネ12:3)

今日は契教育担当牧師就任式です。私たちは長年、共同牧会という幻を抱いて 祈ってまいりました。そしてついに主はその祈りに応え、新しい若い牧師を 遣わしてくださいました。主は今後どのようなみ業を新しい牧者を用いてなされる のでしょうか。教育の働きはとても重要です。特に若い人たちの信仰の育成は 急務です。21世紀を担う若者が教会にはどうしても必要なのです。彼らは 地の塩、世の光なのです。

今日に至るまでのふじみ教会の歴史を顧みますと、ふしぎな主の奇跡を見る 思いがいたします。人間的に考えると不可能と思えたことでも、主はすばらしい 助けを与え続けてくださいました。肉の力では決してできなかったことを 主は成し遂げてくださいました。故に、主を讃美せずにはおれません。確かに、 これまでの事柄は全て主の恵みですが、主は私たちの側の真実さを求めておられる ことも事実なのです。

つまり、主は私たちの真実な応答や信仰の一途さや誠実さを期待されるのです。 マリヤは惜しみなく自分の持っていた香油を主に注ぎかけました。それによって、 家は香しい香りで満ちたように私たちの教会も、惜しみなく自分の宝物を主に 捧げる共同体でありたいものです。

契牧師の就任決断はマリヤのような熱い主への思いから出たことであるように、 私たち全員にとっても、今日は新たな信仰の献身式でもあります。先日来、教会 の諸行事は兄妹のめまぐるしい労力を必要としましたが、一人一人が労力を惜しまず、 奉仕されました。それを見て芳しい香りが漂うよう感じたことでした。主のために 何かを捧げることによって教会は神の家族とされていきます。愛溢れる所に主は 喜んで来られます。



1999年7月25日

主において

牧師 犬塚 契

わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを 抱きなさい。(フィリピ4:2)

パウロの伝道を支え続けた二人の婦人、この二人の関係がどうもよくない。その 事は、獄中のパウロの耳にも入っていた。そして、パウロはその事で心配し 手紙に記している。教会にはさまざまな人が来る。年齢も趣味も仕事も生活も 性格も異なった人々が集まる。おおよそ一つの所に集められるはずのない人々が 集うのである。そんな人々の集まりが一致できるとしたら、「主において」しか ないことをパウロは知っていた。「…私がどのような動機をもっていたら、 その人に服従することができ、私にどのような理由があったら、その人を愛する ことができるだろうか。」(ジャン・ド・ルージュモン)人に服従でき、愛する 事のできる理由や動機は、ただひとつ「主において」である。最初に主が私たちに 惜しげもなく、ご自身を捧げてくださったからである。愛することや許すことを 教えてくださったからである。

教会が「主によって」一致できることは、なんと素晴らしいことだろうか。 背伸びすることなく、見栄をはることなく、泣きたいときに泣き、強がる 必要などなく、飾りなどつけない、そんな交わりができる理由は、「主によって」 である。ふじみ教会がますます、「主によって」建てられる教会でありたいと 切に願う。共に集まり、共に祈る教会、礼拝後など所々で自然にお互いのために 祈り合うことのできる教会になっていきたい。主による交わりを期待し、 心はどんどん広がっていくのである。
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