巻頭言
2023年7月


2023年7月2日

「私たちの宣教」

草島 豊牧師

キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。 <ローマの信徒への手紙15章14-21節>

 パウロは18節で「キリストがわたしを通して働かれた」と語る。ではキリストは私たちに、そしてこのふじみキリスト教会にどのように働かれ、どのように働かれようとされているのか。パウロはローマの信徒への手紙にまとめられているような事を、はじめから考え、信じ、自覚していた訳ではなく、失敗、衝突、困難の中で考えがまとめられていったのではないか。私たち、そして私たちの教会への召命、役割も、はじめから分かっていなくて構わない。歩み、失敗の中で、明らかにされ、また言葉になっていけばよい。日本バプテスト連盟では1990年代に「500と5万」のスローガンが掲げられていた。伝道所を開設し、教会、信徒を増やしていきましょう、と。ふじみ教会はその歴史の中にありつつも、生きづらさを抱える人々と一緒に歩むことを特に大切にしてきた。わたしがふじみ教会に来て、教会のビジョン、取り組みを知った。今の時代「そんなんじゃ生きていけないと言われる社会」にあって「このままで生きていける社会」がめざす宣教だと。パウロが見たように「神の働き」に目を留めたい。一見無力と思える中に、すでに神が働いている。私たちはつい「自分に何ができるだろうか」と考える。しかし教会は「何ができるか」という交わりではなく、存在を喜ぶ交わりだ。なぜなら、その関わり合いの中にキリストが働いているから。現に働いているキリストの働きを喜んでいくことが「このままで生きていける」教会となっていく際に大切なことではないか。いま、ふじみ教会の宣教を振り返り、確認し、何が主から託されているのか、これからのふじみ教会の歩みを共に見ていきたい。



2023年7月9日

「天地の創造」

犬塚 契牧師

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。       <創世記1章1?5節>

 分厚い聖書の最初の一節。この一言に圧倒されて信仰をもった大学創設者の話などを聞いて、世の中には随分と単純で素直な人がいるものだなぁと感じていました。…今は少し違うことを考えています。口伝で知られていたことや散らばって残された創造の物語が、このような形にまとめられたのは紀元前6世紀のようです。時のイスラエルはバビロン捕囚期にありました。400年続いた王朝は、戦いに敗れ、神殿が破壊され、リーダーや技術者たちは連れて行かれました。バビロンで繰り広げられる異教の神々の行列を見れば、自分たちの主なる神への信仰は過去の遺物のように思えたことでしょう。言わば混沌や混乱の中で創造物語は紡がれていきました。創世記1章1節。「初めに、神は天地を創造された。」残された最初の一言は簡潔にして、圧倒的でした。古代オリエントの創造神話は、神々の骨肉の争いの末に造り上げられていくのに対し、創世記のはじまりは神の短い宣言からでした。果たして人間の想像力でこんな最初が書けるものだろうかと思います。Uテモテ3:16を思い出します。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(口語訳)



2023年7月16日

「What A Wonderful World」

市川牧人神学生

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。 <創世記1章31節>

 「緑の木々を、赤いバラを見ている。花が咲いているよ。僕と君のためにね。僕は心でふと思う。この世界はなんて素晴らしいんだ。」ベトナム戦争、人種差別、ケネディ大統領の暗殺という幾重にも重なるアメリカの闇の中で一人の黒人歌手ルイ・アームストロングは歌いました。自身にも深い差別を受けアメリカの黒人差別400年の歴史の上に立つ彼の歌声には独特の「切なさ」があると言われています。しかし、その歌には言いようもない希望と天地創造の神の言葉を語る壮麗さが響いているではありませんか。「見よ!それは極めて良かった。」ルイは後にこのようにも語っています。それはルイの歌う「素晴らしき世界」に相反する現実を憂う若者への応答でありました。「落ち着いてこのじいさんの言うことに耳を貸してくれ。俺には世界がそんなに悪いって思えない。人間が世界にしていることが悪いんだ。俺が言いたいのは、世界にもう少しチャンスを与えれば、みんなその素晴らしさがわかるってことさ。愛だよ愛。それが秘訣なんだよ。」ルイは、自分が受けてきた差別が法の制定によっても、長い歴史を経ても根本から解決されない現実を前に、それでも「もう少しのチャンス」を語るのです。そこに私たちと神さまの関係がダブります。私たちはアダムとエバの背信以降、聖書の2000頁とその後の2000年間において耐えず神に背き、軽蔑し無視してきました。しかし、神はイエスキリストの十字架によって無限の「もう一度のチャンス」、否、もうすでに達成されたチャンスを与えてくださっているのです。私たちはただ十字架によって完成されたこのチャンスを受け取り、それに応答していくだけなのです。「愛だよ愛」私たちはこのことを安息日に教会に集い、その共同体を生きていく中で知っていきます。物や場所、地位を神は聖なる物とはせず、まず第一に神との交わりの「時間」を神は聖なる物と定められました。他者の物を欲したり、出し抜いたりすることではなく、神と、そして他者と「ともにいる」時間をむさぼり求めて生きてゆきたいと思います。 



2023年7月23日

「生きる者となる」

犬塚 契牧師

 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(7節) <創世記2章4-17節>

 創世記2章。人間の創造の部分を読みました。最初に造られた人ならば、エリート中のエリート、神の直系、神の化身、時の王の出生の秘密であるはずでした。しかし、聖書のはじめはそう書きはしませんでした。ただの人が造られます。それはまた特別な材料ではなく、神聖を帯びた何かでもなく、ただの土の塵で人が造られたのだと記録されました。それは、人を貶めるような書き方でありません。主なる神の栄光を讃えつつ、神の喜びであるただのその人を覚えています。幸いの書き出しであり、出来事でした。▲人は弱い者だと思います。種々の弱さの中で、その極みは、造り主を忘れる弱さでしょう。まるでいのちを分捕って生きているような、「これはおれのものだ、わたしのものだ、自分の好きにするのだ」と囲い込み、内側でいのちが腐敗していきます。あらためて、主なる神のいのちの息を吹き入れられて生かされたことを覚えたいと思います。あっという間に塵に戻るような生涯の瞬きにおいて、いのちは賜ってそこにあり、神の歓喜の裏打ちゆえにどんなに短かろうと長かろうとなお格別であると知りたいと思います。わたしたちは、順番に地上を去るでしょう。焼かれれば1時間で骨になり、塵に戻ります。いのちの与えぬしも元へ戻ります。悲しいことではありません。そして、すべて塵に還るとは、結局は無常の意味のないことでもありません。その間に流れた時も起ちあがった関係は、一日でも千年でも、祝福でありました。



2023年7月30日

「応え合う者として」

犬塚 契牧師

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 <創世記2章15−25節>

 聖書の創造物語2章は、人の創造が描かれています。創世記は、どうやって造られたか(HOW)には、ほとんど重きを置いていません。実験室で試験管を眺めて書かれるレポートのようにではなく、むしろ誰が(WHO)、なぜ(WHY)を大切にしています。知らされるのは神によって、呼応する存在として造られたということです。神と人との呼応や対話、それはまた、人と人もしかりでした。人はどんどんとアメーバのように分裂して、増殖するような創造ではなく、はじめから呼応し対話する存在として造られたようです。もし、相手が自分の分身なら、話も合うし、感覚も近いし、分かってもらえるし、趣味もぴったりで…だったはずです。しかし、圧倒的他者でした。なるほど、どおりでこんなにもコミュニケーションにエネルギーが必要なのですね。創世記2章、男と女に限らず人と人との創造は、他者性を前提に書かれます。だから、私たちはとても苦労しています。▲2章の最後は、「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」で終わります。弱さがあっても、恥部があっても、お互いが受け入れ合う関係があったということでしょうか。今は、もう心も顔も隠しまくって、誰が誰だか分からない有り様です。しかし、隠しきれずにときどきボロがでる、聞こえてくる、見えてくる恥ずかしさ、悩み、痛みは、やはりお互い様です。けれども、お互いが見つめ合って解決できるほど、メルヘンには生きられません。せめて、同じ造り主を見上げる…そんなところでしょうか。




TOP