巻頭言
2022年7月


2022年7月3日

「祈りの輪の中で」

犬塚 契牧師

 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。       <コロサイの信徒への手紙4章2−6節>

 「祈りなさい」の勧めの後に「祈ってください」とお願いを記すことで祈りの循環が生まれます。キリスト教の独一的な出来事、ユニークな作業です。祈りとは、神へのひとり言ではないのだなぁと改めて知らされています。パウロは何ゆえに祈り合いを必要としたのかは、その後に書かれていることに関係しているのでしょう。曰く「秘められた計画を語ることができるように」。神の御想い、まなざしがユダヤ人を超えて、異邦人まで及んでいることをパウロは知らされ、それを伝える者でしたが、同胞のユダヤ人からの反感を買い、訴えられる事態となりました。それがこじれて、ローマでの軟禁につながっていきます。時の領主と総督は二人で出来事に巻き込まれていくパウロを案じています。「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」(使徒言行録26:32)。▲そんな様子を思い描けば、パウロが「このために」と苦労を明確に認識していたことに驚きとうらやましさを感じます。私にとっては、日常のやっかいや苦労が「このために」と受け止め得るほどには整ってはいないのです。むしろ、「なんのために」とため息があり、どこにつながっての焦りばかりが募っています。そして、祈らぬから、無力感が増すのでしょう。それでも、パウロが捕り囲まれているのは、人生をかけての意義ある課題ではなかったかも知れません。人の嫉妬、プライド、利権、頑固、誤解…ゆえの逮捕、鞭打ち、裁判、上訴、肩透かし、そして、おそらく死刑。やっぱり「こんなことのために」でしょう。▲「このために、わたしは牢につながれています。」勘違い男の悲しい錯覚でないとしたら、彼は、日々の祈り合いの中で、別のルート、チャンネル、パイプから、「生き得る」を知らされていたのだと思います。そう読むと、私も祈る者でありたいのです。



2022年7月10日

「ほめたたえられますように」

犬塚 契牧師

 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。           <エフェソの信徒への手紙 1章3-14節>

 世界にはたくさんの物語があって、それはその家系がつくるものであったり、企業がつくるものだったり、または国がつくるものもあるでしょう。子どもは家の期待を覚えて育ち、テレビCMは「これがあれば幸せ」と視聴者を引き込みます。国もまた時に恐ろしい物語を作り上げて、国民のいのちを奪うことがあります。▲エフェソの信徒への手紙の1:3−14は、聖書の言語では、区切りのない一つの長文です。流れるように書かれた手紙の冒頭の物語もまた壮大でした。「天地創造の前」からと始まって、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」と一息に描かれていきます。永遠から永遠へと続く神の御想いを、人間が拙くともその言語で精いっぱい表現することが赦されていることに驚いています。まさに「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」(3節)です。そして、また著者は、「神はわたしたちを愛して」と始めました。あらゆる神々を恐れ、天変地異に翻弄され、そのためにあらゆる犠牲を払ってきた人間には、このエフェソの神は想像だにしない神の姿です。神が愛であることが当たり前であったことはありませんでした。しかし、それを「キリストにおいて」、「キリストによって」知らされていくのです。なにがしかのものである人の誇りも徳も善行も、微塵に砕かれて雲散霧消し、神の御業だけが燦然と残り、輝きます。やはりまた、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」(3節)です。 



2022年7月17日

「かなめ石はキリスト」

犬塚 契牧師

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し…   <エフェソ 2章14−22節>

 「水と油」は確かに分かれてしまいますが、ドレッシングくらいなら、よく振って交ぜて食べるので問題ありません。「ふたつのもの」とは、決して交わり得ないような双方を表しているようです。エフェソでは、ユダヤ人と異邦人を意味していますが、2000年も前のわだかまりでもなさそうです。外来種と在来種の区別、駆除をTVで見るようになりました。ブラックバス、ミドリガメ、アメリカザリガニ、そして鯉。かつては日本人と鬼畜米英、アメリカ人とジャップ、アリーア人とユダヤ人、黒人と白人、加害者と被害者。とても、ひとつになり得ないのは、定めたルールゆえでしょう。「規則と戒律ずくめの律法を…」▲教会が借りている駐車場に勝手に駐車する車があって、管理をしっかりしようと役員会が話し合い、看板を立てることになりました。特別に注文した「有料駐車場」の看板を固い地面に打ち込んで、よい仕事をしたと思った次の日に、相も変わらず駐車されたのをみて、急に怒りが沸きました。なんだかルール決めると腹がたってしょうがありません。▲先週、参議院選のポスターをゆっくり見る時間がありました。いつの間にか敵意前提の世界が足元に広がっていました。これから襲ってくるナニカ、脅かすナニカから、「守り抜く」とそれぞれの候補者が謳っています。時間が逆戻りしたようで、頭がくらくらしています。▲「実に、キリストはわたしたちの平和であります」。象徴的概念でなく、イエスキリストそのものようです。しかし、何ゆえローマの死刑囚が、平和となるのか。剣抜かない、報復せず、滅多打ちの神の子が平和となるのか。言葉にならぬ神の愚かさ。 



2022年7月24日

「でっかい愛がうれしくて」

犬塚 契牧師

 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。            <エフェソの信徒への手紙4章17−24節>

 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」から始まるパウロの祈りが、4章17節以降続きます。歴史を訪ねても100年前の石碑に書かれていることすら読めないことが多いので、2000年前の信仰者の祈りが読めてありがたいなぁと思います。ただ、「愛のすすめ」は苦手です。どうにか、わき道、逃げ道、隠れ場所を探します。私には、愛がありません。やさしい両親からハウス栽培で育てられたので、愛の振舞は幾分可能でも、そこに心はありません。自分でも、とっても残念なことで、がっかりです。しかし、私の周りには先天的にも思えるような愛ある人たちがいて、驚嘆と羨望がありますが、私は「牧師」なのでできるだけそれは顔に出さないようにしています。▲…で、パウロの祈り。改めて、読むと祈りでした。そして、それは愛のなさの嘆きではなく、キリストの愛の広さ、長さ…を理解し、知ることができるようにとの祈りでした。なんだか、勘違いしていたようです。愛のない自分に嘆くなどという悩みは無用でした。何様のつもりだったのでしょう。傲慢で、贅沢で、不釣り合いな悩みです。せめて、せめて、愛されていることを知る。赦されていることを想う。そんな心と所作だけが人の持ち得る人生態度でした。それでも愛されているという法外さへの気づき、そこから始めるべきでした。それは、道端に落ちているというよりも、祈りにおいて深められていくことのようです。そんなことを4章の祈りから教えられています。そんな気づきからひょっとしたら「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」によって、愛のない者が愛の真似事くらいはさせてもらえることになるかも知れません。そうだとしたら、それこそ望外の喜びです。



2022年7月31日

「心の底から新たにされて」

犬塚 契牧師

しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。             <エフェソの信徒への手紙 4章17−24節>

 防水耐衝撃のスマートフォンに代えたばかりなのにいつの間にか画面が割れていました。遠方よりの教会への電話、親身に話を聞きましたが、現金詐欺にあってしまいました。炎天下、バイクで訪問中の父が車と接触して救急車で病院に運ばれてしまいました。床に転がっていた子どもの荷物をよけて、机に小指をぶつけました。…「あなた、それ呪われているのよ」と言われもすれば、さらなる災厄を避けて、除霊グッズの一つや二つ買ってしまうかも知れません。起きていることのカラクリを分かりやすく説明してくれる”原理”でも聞けば、世界が拓けたように感じるかも知れません。これからの行く末がいくらかでも好循環するならと占いの言葉に耳を傾けたかも知れません。▲『「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネ9)主イエスが、罪の呪いに見える出来事を神の業の始まりと理解していたと知って、感謝でした。『イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』(ヨハネ8)主イエスが、石打ちに怯えた逃げ場のない女性に対して、彼女が本当に似合う姿を示したことを覚えて感謝でした。▲エフェソ書が記す「キリストを学ぶこと、聞くこと、教えられること」の内実を考えています。主イエスキリストを通して、せかいは見直されてよいのでしょう。最もいまわしい十字架刑ですら、復活の喜びに変える神がおられるとすれば、その神の言葉を聞きたいと願うのです。




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